道端鈴成

エッセイと書評など

情報戦とレトリック(2)慰安婦問題におけるロゴスとエートス、パトス

2007年08月25日 | 思想・社会
アメリカ下院の慰安婦に関する日本非難決議に際して、日本人有志がワシントンポストに出した全面広告は、事実を簡潔に提示したすぐれた内容のものだった。冤罪を晴らそうとする、すぎやまこういち氏を初めとする有志の努力は、大いに評価すべきものである。池田氏が日本人を差別する慰安婦非難決議で指摘しているように、欧米のメディアにおける報道が両論併記なり、やや慎重になっているのは、こうした広告も含めて、読売新聞などのメディアの記事、ブログなどでの英語での反論の試みが、多少なりとも影響しているとは言えるだろう。反論なしに、事実誤認と公平性の原則(同じ出来事は同様に扱うべし)に反する決議を放置すれば、フィリピン議会のようにその尻馬に乗ろうとする国が多く出てくることになるだろう。個々の局面での説得は、単に、勝ちか、負けで終わるのではなく、より長期的・全体的な流れのなかで、より良い手を打っていくことが重要であり、事実に基づく反論は、やはり必要だった。

ではあるが、今回の慰安婦問題への反論の仕方を全体としてみると、説得の戦略として見ると、やや考慮すべき点があるように思う。情報戦とレトリック(1)で述べたように、説得には、事実の吟味と論理に基づくロゴスと話者の信頼性に関わるエートスと聞き手の感情に関わるパトスの側面がある。ロゴスの側面は誰が言っても同じだが、エートスとパトスは誰が、いつ、どのように言うかで大きくことなる。

まず政府の対応は、当初反論を試み、そのあと謝罪、最後に無視というように、拙劣だった。首相は個別の反論をする必要はなく、事実は政治家が決めることではない、歴史家にまかせるとで言って、おうように構え、調査と英語での発信をサポートすればよかった。誰が何を言うかの連携が全くとれていない。

The Factsというタイトルのワシントンポスト紙への全面広告は、ロゴスへ訴えるものだった。ロゴスへの訴えとしては簡潔で非常に良くできていた。しかし、エートスとパトスの壁は破れなかった。事実を訴えても、日本の右翼が、あるいはリヴィジョニストがと、欧米メディアに充満した第二次大戦に関する日本からの主張に対するエートスの免疫で、事実を検証しようとすらしない。また、戦勝国として空爆による民間人の無差別虐殺などの非道を重ねてきた自己の正当化の根拠として、旧日本軍を悪とする素朴リアリズムにかたくなにしがみつくパトスに根ざす思いこみがある。涙で訴える老齢の性被害者かわいそう、その訴えを信じないなんてちうパトス、またそれに反論したら女性と被害者の敵にされてしまうという世論への恐怖というパトスもある。個々の議員は選挙区で中韓系の移民の票はほしい、日系はたいして反発しないしという損得勘定のパトスもある。

以上のように考えると、エートスとパトスの壁はなかなかあついことが分かる。ロゴスで理非をわきまえた指摘をしても、エートスとパトスの壁は破れない。

しかしロゴスは長期的には有効である。だからまずロゴスはロゴスとして、徹底的に反論と主張を続けなくてはならない。秦氏の慰安婦と戦場の性などは、全面広告の費用を充ててでも、英訳出版すべだろうと思う。

ロゴスはしつこく集中してが原則だが、エートスとパトスへの対処には、問題をより広い文脈で扱う必要がある。ロゴスで事実を明確化する一方で、アジェンダとして浮かび上がり、エートスとパトスをかき立てるのをさけるという選択肢もありうるが、すでにアジェンダとしてややこしいエートスとパトスの焦点となってしまっているので、政治的にはあえてアジェンダ化しないという程度の選択しかない。そうすると次のようなきわめてやっかいな問題に対処せざるをえない。

エートス1:旧日本軍への非難への反論は右翼、レヴィジョニストであり、その主張は吟味せずに棄却できるとのレッテル貼り

パトス1:旧日本軍への非難へのあらゆる反論は、戦勝国側としての正当性の主張を傷つけるので排除すべきである

パトス2:かわいそうな被害女性が自ら訴えていることを疑うことは言語道断である

パトス3:パトス2を受けいらないと世論からの非難をうけるのでこれは避けたい

パトス4:選挙事情を優先したい

エートス1とパトス1は戦争に関する正義と利権に関する問題、パトス2と3は弱者の訴えに関する問題、パトス4は個別利害に関する問題である。戦争利権と弱者の訴えに関する問題は個別でも扱いが難しいのに、両者が一緒だと、エートスとパトスの扱いがきわめて難しい。地雷原を歩くようなものである。パトス4は、事実をしつこく指摘しつづけて、相手側が自分のエートスの危機をいだくようにする必要がある。収賄など不明朗な金銭の授受を告発できればさらに良い。訴訟で、議員の行動そのものをアジェンダ化するのも有効である。

戦争に関する正義と利権の問題では、旧日本軍の正当性を擁護するより、同じ基準で他の国の戦争犯罪も扱うべしと訴えた方が効果的ではないかと思う。このためには、慰安婦問題のような事実誤認や不公平な非難はあくまで反論するとして、旧日本軍の犯罪で認めるべきはあっさり認めてしまったほうが良い。たとえば731部隊の問題など、告発に誇張やウソがあったとしても人体実験の事実は否定しがたくあり、どうみても擁護できない。アメリカ軍との取引で追求を免れたのかもしれないが、関係者で戦後に叙勲されたものがいるときく。こんなのは、今からでも遅くないので、叙勲を取り消して名誉剥奪をしたほうが良い。日本の都市空爆で民間人の大量虐殺をした責任者であるルメイの叙勲も取り消すべきだ。

苦しいなかで闘った祖先を擁護したいという心情は人情としてはわかるが、外から見たら単なる身内びいきとしてしかうけとられず、エートスを損なうことにしかならない。正しい事実認識を、そして公平な批判をという要請の方が良い。同じケースは同様に扱うべしという公平性の要請には普遍性があり、またアジェンダが旧日本軍だけに固定化されることをさけられるので、エートス、パトスの面で有利だからだ。例えば、アメリカ下院による慰安婦決議は、ロゴスにおける事実誤認は別としても、アメリカの議会にそれを言う権利はあるのか、原住民の虐殺は謝罪したのか、原爆による一般市民の大量虐殺は謝罪したのかなど、他のより深刻なアジェンダをとりあげて、公平性の原則に訴える議論がある。「兄弟の眼の細かい塵に目くじらを立てるくせに、自分の眼の梁が見えないのか。」、自己中すぎはしないかというもっともな批判であり、これは一部の反日に凝り固まった国や批判された当該国などの主流派には受け入れる事が難しいかもしれないが、普通の国の市民の立場から見れば説得力がある。これに対しては、比較などするな、それで旧日本軍の戦争犯罪が免責されるわけではないという意見もある。免責されないという点は正しい。しかし、それは、アメリカや中国やロシアなどの戦争犯罪が同じ基準で追求されなくても良いという理由にはならない。免責されないというなら、追求されなくとも良いということには、さらにならない。これが公平性の原則である。個別の事例だけを追求して他の事例を同じ基準で追求するなというのは、下級法技術者、あるいは、個別の利害を持った人間の発言である。ノーマン・フィンケルシュタインも、エリヴィーゼルなどによるユダヤ人の被害の特権化を批判し、比較せよと強調している。これが、下級法技術者や個別利害関係者でない、より公平な立場の発言である。

Institute for the History of the Human Raceにおける「当事者間の紛争の継続としてのイデオロギー的非難合戦に汚染されない、人類史の立場からのより客観的な事実にもとづく評価の提示を試みることにより、人類としての虐殺と虐待の抑止の向上に貢献することを目的にした」世界虐殺・虐待ランキングは、こうした趣旨の試みである。

以上のような普遍的な批判をする場合には、戦争に関する正義と利権の問題で、公平性を欠く戦勝国秩序にかわり、どんな構想かという点にも議論は及ぶ。戦勝国秩序における共産主義と自由主義のイデオロギーの溝に着目し、提唱された、自由と繁栄の弧などという方向での構想がもっと活発に議論されるべきだ。積極的な構想に関する議論の蓄積なしに、個別の事実の批判だけしても、議論は弱いものにしかならない。では、過去に戻りたいのかと言われてしまう。こうした文明論的な議論については、また機会をあらためて述べたい。

パトス2とパトス3は、戦争に関する正義と利権の問題とは別の意味で、扱いが難しい。いくら冷静に証言の矛盾などを指摘しても、具体的な被害者を自称する人の涙の訴えのインパクトが勝ってしまう。第三者にしても、弱者、被害者とされる人にやさしくない非人道的な人というレッテルを貼られる恐怖から、被害者とされる人の訴えがおかしいと思っても、せいぜい沈黙する程度になってしまう。どうしたら良いのか。直接、涙の訴えには立ち向かわず、映像と事実を淡々といろんなチャンネルで提示して、周辺から徐々に、エートスとパトスを変えていくように試みるしかないだろう。例えば、被害者の涙の訴えがかならずしも正しいとは限らないことは心理学では常識で、アメリカでも偽造記憶などの問題があった。きわめて周辺的で、ある程度理性的な人に対してしか効果はないが、一応情報としては必要だろう。また、戦争における明白な性被害の別の例も、問題をより公平にとらえるには必要である。日本人の慰安婦やアメリカ軍の慰安所経験者、ベトナムでの性被害者などが、メディアに登場すれば、現在の慰安婦スターによる涙の訴えの映像の独占状態を相対化できるだろうが、恥ずかしいし、難しかもしれない。写真などでも映像があると、言葉だけよりも効果は大きいだろう。涙で被害を訴える慰安婦スターのエートスの直接攻撃は難しい。プロモーターである活動家や支援団体もふくめて、金銭の流れなどをおうなどしてエートスを徐々にきりくずすしかないだろう。いずれにしても宣伝戦のようで気持ちが悪いが、なかなか他の方法も難しい。そもそも、アジェンダとして、メディアで映像などを繰り返し提示され、パトスをかき立てられるのを避けられたら良かったかもしれない。しかしこれは避けられなかった。

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