道端鈴成

エッセイと書評など

Tube's dilemma: バカ度+偽善度>100/200

2011年02月15日 | Tube's dilemma
「正社員化」で職が減った日本郵便

  昨年、6500人の契約社員を正社員化した日本郵便が、今度は数千人規模で彼ら非正規の雇い止めをするという。既に1200名の新卒採用凍結は発表していたが、それでも足らずにクビを切るわけだ。「正社員化→新卒採用凍結→非正規クビ」という、絵に描いたような三段落ちである。経営状況を無視して、コスト増につながるような規制をかければどうなるか。「小泉改革のせいで格差拡大」とか「規制強化で雇用が増える」とかトンチンカンな主張をする人たち向けの、日本郵便の皆さんによる体を張ったシミュレーションと言えるだろう。有期雇用契約の規制をすれば正社員が増えると本気で信じている共産党、社民党、日弁連、そして厚労省の皆さんは、彼らの犠牲に感謝しつつ、現実というものをしっかり学びなさい。(29才の働く君へ、2月15日)


まともな経済学者は最初から言っていたことだ。労働市場の規制強化の結果生じるのは不効率な労働力配置の固定化、新規に職を求める人、非正規雇用者などの、弱い、あるいは転職により、将来の労働力としての展開の可能性がある人々の機会喪失、そして、強い労働組合にまもられた仕事への適合度や生産性の低い人もふくめた正規雇用者の既得権の確保である。これは連合や自治労、日教組など、民主党政権の支持基盤にとっては望ましいことだろうが、国全体の経済にとっては、不効率な労働力配置の固定化だけでなく、それを嫌っての産業の国外流出もまねき、衰退への道である。一に雇用、二に雇用と言っていた菅首相は問題が分かっているのだろうか?経済学に明るくないことは、乗数効果についてのとんちんかんな国会答弁や、国債格下げについて自らそういうことに疎いといったことでも分かる。経済音痴度、あるいはバカ度は比較的高い。もう一方で、労働市場の規制強化が支持母体である労組の意向にそう政策であることも分かっているのだろう。しかしそうした個別利害は正面には出さない。だから、偽善度も高いと言えるだろう。現在の民主党政権の政策を是認するには、バカ度が低すぎて政策の効果を明敏に分かっても難しく、また、正直に国益に反した個別利害が自分には大事だとも言いにくいので、バカ度と偽善度が各100点だとして、バカ度+偽善度の合計が少なくとも100点を超えないと難しいのではないかと思う。この点で菅氏は、バカ度、偽善度ともにかなりのレベルのようなので、民主党政権の宰相にふさわしいと言えるのではないだろうか。

連合赤軍・全共闘の亡霊政権・凶悪化する60代

2011年02月07日 | 時事
連合赤軍 永田洋子の死に(依存症の独り言、2月6日)

「全共闘の亡霊」政権(道端鈴成、2010年11月2日)

凶悪化する(60代)老人たち(「Livedoorニュース2月2日」)
 マスコミはよく「年々凶悪化する少年犯罪」と報道します。しかし、現実にはここ40年間の間に、少年凶悪犯罪も一般凶悪犯罪も激減しており、なんと平成22年の殺人事件の認知件数は、2年連続で戦後最少という結果でした。昔に比べれば犯罪の少ない国に、日本はなっているようです。
 ただ…。
 少年凶悪犯罪や一般凶悪犯罪が激減しているのはいいのですが…、高齢者、つまり老人による殺人などの凶悪犯罪が年々増えてしまっているんですよ。
 現実では「キレる若者が増えている…」のではなく「キレる老人が増えている」のです。
 こう書くと、必ず「それは若者の数が減っているだけなのでは…?」という意見が出てくるのですが、年代別での殺人発生率で計算しても、20~40代の検挙者は減っているのに、60代は増えているのです。
.........
 平成22年上半期に日本民営鉄道協会が発表した、全国の大手私鉄16社の駅や車内で起きた、駅員や乗務員を殴るなどの暴力行為の加害者年代のデータを書き出してみましょう。 
 ・10代 3%
 ・20代 14%
 ・30代 18%
 ・40代 22%
 ・50代 10%
 ・60代 23%
 ・不明 10%
 と、実はこのように60代が一番多いわけです。 

参考
少年犯罪は急増しているか(平成19年度版)

Tube's dilemma:疎い夫をみかねて妻がしゃしゃり出て

2011年02月06日 | Tube's dilemma
「疎い」はまずかったと伸子首相夫人

 菅直人首相の伸子夫人は5日夜、横浜市の公開討論会で、日本国債格下げをめぐる首相の「疎い」発言について「疎いを使ったのはまずい。『知らない』と言えばいいと(首相に)言った」と注意を促したことを明らかにした。首相の返答には言及しなかった。
 一方で、首相発言を取り上げた報道に対して「このマスメディアに付き合っている日本人は滅びる。何度首相の交代を繰り返すのか」と強調。内閣支持率が低迷する現状に関して「20年かかってこうなった日本が、1、2年で変わると思わないでほしい」とした。(産経ニュース、2月5日)



■1、2年で効果がでるわけない。
■効果が出るまで何年かかるかなんて保証できない。
■このままつづけた方がいい。
■短期でやめるとかえって損するよ。

なんだか、要らんもの売りつけた後の詐欺師の言い草みたい。さすがに詐欺マニフェストで政権をとった政党の首相夫人だけのことはある。というか、もともとマスメディアの応援詐欺幇助で政権をとったのが民主党で、麻生政権のときのカップヌードルの値段だの漢字の読み違えなどへの馬鹿げた批判に比べれば、民主党政権の外交や経済の失政への批判はきわめてまともなのだが。さすがは全共闘世代、夫婦そろって独善と公平性の感覚の欠如は鉄壁らしい。

国債発行額推移

00年度 33兆円
01年度 30兆円 
02年度 34兆円
03年度 35兆円
04年度 35兆円
05年度 31兆円
06年度 27兆円 ←安倍政権
07年度 25兆円 ←福田政権
08年度 33兆円 ←麻生政権

09年度 53兆円 ←鳩山政権
10年度 44兆円 ←菅政権
11年度 54兆円 (見通し)

自民党政権が残した問題を解決するための見通しと努力が必要なのに、
破たんにむけてアクセルを踏み込む民主党政権。
もう誤魔化しや責任転嫁はやめて、とっとと退場して欲しい。

日本アジアカップ優勝

2011年01月30日 | 時事
日本 1-0 オーストラリア Japan 1-0 Australia All Goal & Highlights
危ない場面でのGK川島の好セーブ。最後の最後に長友の見事なクロスを李がきれいに決めて試合が決まった。

اليابان واستراليا نهائي آسيا Japan vs Australia Final
地元テレビのアナウンサーもTadanariのゴールに大興奮。

Asian Cup Final 2011 Japan
カタールの王族が出席し花火も上がった優勝セレモニー。

Lilium

2011年01月27日 | 言葉・芸術・デザイン
Liliumはラテン語で百合である。Youtubeでたまたま見つけて聴いたのだが、深い悲しみと祈りを感じさせる曲である。エルフェン・リートというアニメのオープニング曲らしい。タイトル・ソングでラテン語の歌が使われているとは。アニメ恐るべし。

エルフェンリートのOP曲の「LILIUM」

Elfen Liedはドイツ語で妖精の歌である。アニメの冒頭には、ウィーンの画家クリムトの絵が使われている。歌詞は聖書からとったラテン語の詞である。作詞者のブログでの説明によると、アニメの監督の宗教曲のような感じという求めに応じて、ミッションスクール時代に歌ってなじんできた聖歌を元にしたということで、グレゴリオ聖歌などにも使われている聖句をアレンジしているみたいだ。長い時代を歌い継がれてきた祈りの言葉は独特の力を持っていて、音楽も峻厳な雰囲気と感傷とが絶妙にミックスされている感じがする。まだアニメや原作のマンガを見ていないのではっきりしたことは言えないが、作品への感想などを読むと歌詞はアニメのテーマにもうまく対応しているようだ。

MOKA☆竜宮への道

Elfen Lied - Lilium Choir Interpretation

Youtubeには上のスウェーデンの教会での合唱などを初めとして、色んな演奏があがっていて、この歌が世界中で親しまれ初めているらしいことがうかがえる。

Tube's dilemma:伊達直人(タイガー・マスク)と菅直人(カン・チョクト)

2011年01月16日 | Tube's dilemma
伊達直人(タイガー・マスク)菅直人(カン・チョクト)

仮面を被って戦うのが伊達直人
仮免で国を動かすのが菅直人

子供達にランドセルを背負わせたいのが伊達直人
子供達に借金を背負わせたいのが菅直人

必殺技を決めるのが伊達直人
「俺に決めさせるな」が菅直人

庶民の味方が伊達直人
庶民を偽装が菅直人

フェアープレーで闘うのが伊達直人
スタンドプレーで目立とうとするのが菅直人

施設にランドセル贈るのが伊達直人
中国にランド・セールするのが菅直人

贈与するのが伊達直人
増税するのが菅直人

リングで虎をかぶるのが伊達直人
選挙で猫をかぶるのが菅直人

Tube's dilemma:注意:この先行き止まり

2010年11月29日 | Tube's dilemma





Pigeon Watching:政権交代の意味が理解できない鳩山氏

2010年11月28日 | Pigeon Watching
「来年選挙かも」と鳩山前首相が早期の衆院解散に言及

菅直人首相との27日の会談で「政権交代した意義を失わせて、自民党中心の政治に時計の針を逆戻りさせたら大変なことになる。それだけはさせてはいけないという気持ちは、私や小沢一郎元代表も同じだ」と伝えたことを紹介。 (産経ニュース 11月28日)


政権交代の第一の意義は政権が致命的な失政を犯した場合に、民意によって政権を退場させられることである。第二の意義は、政権交代を経験、予期するなかで初めて、責任与党と責任野党が可能になることである。

自民党の長期政権が続いていたときには、与党としての責任を担うという予期のもとでの責任野党は存在しなかった。民主党のマニフェストは無責任野党としては問題なかったかもしれないが、与党になって、それを実施に移さなければならず、現実性がないことが明白になってしまった。マニフェスト選挙で政権をとった手前、軌道修正もできず、政治主導といいながら国家運営の経験もなかった。謙虚に学ぼうとする姿勢にも乏しい。結果生じたのが自民党批判を存在理由として、言い訳と誤魔化しに特化し、最近では居直りつつある無責任与党としての民主党の醜態であり、鳩山氏のルーピーぶり、菅氏の左翼空き缶ぶりもあって、国家と国民に取り返しのつかない損害をあたえつつある。長期政権後の初めての政権交代としては、試行錯誤として、若干やむをえなかった面もないではないが、試行の段階を越えて、錯誤の繰り返し過ぎである。思いこみだけの現実性のない考えで誤りを犯し、かつ、誤りから学べないような面々を選択した事自体が誤りだったということだ。

支持率1パーセントでも首相の座にしがみつきたい菅氏や、無責任与党を続けさせて下さいという鳩山氏は、いまだに政権交代とは反自民のことだと思っているらしい。政権交代のルールは一般的なもので、自分たちが政権について致命的な失政をしたら退場させられ、それをよしとしなくてはいけないとは思っていないようなところが、原則を把握していないのか、自己評価に欠けるところがあるのか、いずれにしても、愚かしいというか、恐ろしい。

民主党政権は普天間から尖閣、二酸化炭素排出大幅削減公約と環境税、派遣禁止、等々、外交、経済にわたって致命的な誤りを何回も犯している。その中には二酸化炭素排出大幅削減公約と環境税や派遣禁止のようにまだ法案が通っていないため誤りの被害が現実化していないものもある。これ以上、国家と国民の被害を大きくしないためには、外交、経済にわたって致命的な誤りを繰り返し、民意を失った民主党政権を退場させるしかない。それがもともと政権交代の第一の意義だった。

政権交代の第二の意義を活かすには、今後、どのような政党の離合集散と再編が行われるにしても、思いこみの現実性のない考えをふりまわす無責任野党が単に無益というにとどまらず、いかに有害な存在であるかを、政治家、国民、メディアの共通認識としなくてはならない。こころある民主党の議員は、無責任与党とはいえまがりなりにも与党を経験したわけだから、今度はその経験をふまえてルーピー、空き缶の失敗から学び、まずは責任野党としての研鑽を積んでから責任与党に参画することを目指すべきだろうし、自民党の議員も責任野党として責任与党を目指すべく、より合理的な経済政策や外交戦略とそのてだてをしっかりねらなければならない。マスメディアや国民も、今後は、昨年の民主党のような無責任野党を与党にしてしまうことの愚を繰り返さない程度には、政策へのリテラシーと見識を身につけることが求められるだろう。

誤りから学べない個人は淘汰され、それができないとその個人が属する集団が淘汰され、さらにそうした集団の淘汰もできないと、その集団が属する上位の集団そのものが淘汰されるというのが、複雑で不確実な世界のなかで生きざるをえない存在に課せられた一般原則だ。仙石氏のような弁護士的対応が習い性となっている人が失敗を言いつくろって誤魔化しても、当座の保身にはなるだろうが、誤りから学ぶことを阻害し、失敗を繰り返し、失敗の帰結を上位のレベルに送ることになるだけで、かえって誤りの害を悪化、非局所化させるだけだ。

菅氏や仙石氏など、最近は、度重なる政権の失策の言い訳に事欠いてか、情報開示と具体的な説明を回避し、歴史が評価してくれるなどの空虚な独善(鳩山氏の時計の針発言と同様、逆風の心細さにかつての左翼仲間の間では霊験あらたかだった歴史主義的な言い回しを、「進歩勢力の自分たちが保守反動勢力に道を譲る訳にはいかない、歴史の歯車の逆戻りは許されない」などと呪文のように口で唱えたくなったのかもしれない)に逃げ込んでいる。しかしこれは、引退した政治家にふさわしい種類の言いぐさだろう。菅氏や鳩山氏、それに、仙石氏、輿石氏などの社民党あがり、および同類の民主党議員など、無責任野党根性が染みついた政治家には、もはや退場を願うしかない。


Tube's dilemma:参議院予算委員会とマスゴミ

2010年11月23日 | Tube's dilemma
朝、テレビのアナログ放送をラジオで聴いたら、みのもんた司会のニュース番組をやっていた。毎日新聞の記者(例のひげのずんぐりした人の声みたいだった)が、柳田氏辞任の問題について、国会がここ1週間この問題ばかりで、予算や財政など国政の議論をしていない、これではだめだと発言していた。ようするに与党は問題だが、野党もということで、みの氏も同意してため息をついていた。

おそらくテレビニュースしか見ていない人はこのやりとりに疑問はもたないだろう。しかし実際の予算委員会の質疑を調べて見ると、予算や財政など国政の議論をしていないという毎日新聞の記者のコメントが事実と反することが分かる。

例えば、11月18日の参議院予算委員会における自民党林芳正議員の質問とそれに対する応答をじっくり聴くと、補正予算と事業仕分けの問題点が具体的な例について丁寧に指摘されていることが分かる。それに答える大臣(蓮舫氏や岡崎氏など)の無知と無責任ぶりは、唖然とするほどであり、民主党政権の薄ら寒い内実がうかがえる内容になっている。しかし、こうした補正予算の中身についての質疑は、テレビなどではほとんどとりあげられていないようだ。

具体的な政策に関する正面からの検討がおろそかになりがちな傾向に関しては、政局をこのんでドラマ仕立てでとりあげる、みのもんた氏の番組を初めとするテレビの責任が大きい。また、具体的な政策をとりあげても、事実に基づく問題の分析と合理的な対策の検討はほとんど行われない。テレビを中心とするマスメディアは、環境問題や派遣労働者問題のように、センセーショナルな事例のイメージとセンチメンタリズムにたよって、ナイーブな視聴者に偏った印象を誘導する。その結果、世論形成を通じて誤った政策を後押ししてしまう。林議員の質問でもとりあげられているが、菅首相が、雇用第一といいながら、二酸化炭素排出1990年比25%削減、派遣労働禁止と、産業が日本から海外に流出してしまう事態をまねくような、科学的、経済学的な合理性を全く欠いた、雇用に大ブレーキをかける政策を唱え続けていられるのも、マスメディアが提供するイメージによってすり込まれた世論の支持をあてにできるからだろう。

テレビを中心とするマスメディアが提供するイメージの影響は非常に強く修正は容易ではない。例えば、少年による殺人などの凶悪犯罪が40年ほど前から大きく減少し、低い水準を維持していることは統計的に明白な事実だが、テレビのイメージはそれとはちがった印象を与える。私の接する人でも、若者による殺人などの凶悪犯罪が増えている、なんとかしなければなどと言う人が多い。そして、統計データを示しても腑に落ちないような顔をしている。犯罪に関する問題はまだ分かりやすい。社会や国、国際問題に関してはもっとややこしい問題も多い。

今の日本は、経済、財政、外交、国防に関して多くの難しい問題に直面している。民主党政権は、政治主導といいながら、経済、財政、外交、国防に関して合理的な政策を立案、実施する能力が乏しく、願望的な計画と国民への詐欺的なマニフェスト、それに言い訳ばかり(最近では居直りも加わった)である。鳩山氏をはじめとする民主党政権の方々は、誤りに学ぶ謙虚さを持たず、思いこみを修正する柔軟性と学習能力に乏しいようだから、最悪の事態を避けるには民主党政権の退場がまず必要だろう。しかし民主党政権が退場しただけでは、問題は解決しない。

現在日本が直面している難しい問題への対応には、合理的な判断と覚悟が求められている。そのためには、ガセネタや願望的思考にひっぱられずに事実を明確に認識し、より合理的な解を集団的に選択していくことが必要だ。このための大きな障害となっているのが現在のテレビを中心とするマスメディアの報道姿勢であり、これが変わらないと、かりに現実的に可能な最善にちかい政策をとっても色々な問題がつきないのは明白で、いくらでも願望に照らして苦情は言えるだろうから、そしてユートピアを夢見て地獄を招来するのが左翼のDNAだろうから、事実に基づく合理的な意志決定とコミットメントを行う政治集団が政権につき政策を実行することを阻害し続け、同じ過ちを何度も繰り返すことになるだろう。

Tube's dilemma:海上保安官に対する刑事処分に反対をするネットの会

2010年11月12日 | Tube's dilemma
【署名のお願い】海上保安官に対する刑事処分に反対をするネットの会
代表 佐々淳行

このたびの尖閣漁船体当たりビデオ流出事件に関し、第五管区の海上保安官が自首し、現在警視庁による事情聴取中です。

この海上保安官のYou Tubeへの投稿は、国益を思い、使命感にかられて行った行為です。
国家公務員法の規律違反としての減給、戒告等の処分はやむを得ませんが、守秘義務違反による刑事罰を科すことには強く反対します。

私のこの意見に賛同してくださる国民の声を、メール形式の「署名」という形で集めたいと思います。
法的な力はありませんが、私のできる限りのチャンネルを使って関係各所にはたらきかけるつもりです。
そのためには、皆様の「署名」が大変大きな力となります。

署名の詳細はこちら
佐々淳之 ホームページ

シューベルトのピアノ・室内楽曲と長調の悲しみ

2010年11月08日 | 言葉・芸術・デザイン
今年の夏あたりからシューベルトのピアノ曲や室内楽曲を繰り返し聴いている。物理学者で音楽愛好家でもあったハイゼンベルクは自伝で、シューベルトについてなぜあんなメロディーを思いつけたのだろうと書いている。音楽がよく分からない自分にもなんだか同意したいような気がする。

音楽の印象については、短調がなぜ悲しげで、長調がなぜ元気な感じがするのかといった基本的な問題がまだ分かっていない。クック博士は、音楽における長調、短調の印象が動物における音声コミュニケーションに基盤があるとの面白い説を唱えている。動物は、弱く宥和のサインを出すときには、犬であれば背中としっぽをまるめ体を小さく恭順の姿勢を示し、高いキャンキャンと言った声で鳴く。反対に威嚇するときには毛を逆立て体を大きくみせる姿勢をとり、グウーゥと低い声でうなる。高い音声は体の小さなあるいは緊張の弱い状態を示し、低い音声は体の大きなあるいは余裕の強い状態を示す。緊張か余裕かという解釈はハンディキャップ原理の解釈で、体の大きさとの関連での解釈はサイズシンボリズムの解釈である。いずれにせよ、高い音、あるいは基準音から上昇する音は、弱さと緊張状態を、低い音、あるいは基準音から下降する音は強さと余裕の状態を示す。これは、人間の言葉の調子でも、断定の下がるイントネーション、疑問の上がるイントネーション、宥和の高い音声、威嚇の低い音声など動物の音声コミュニケーションと同じ現象が見られる。クック博士の理論は音楽における短調、長調の印象が、動物の音声コミュニケーションに進化的基盤を持ち、言語コミュニケーションでも用いられているシンボリスムを音楽においてひきついたものだという考えである。クック博士は、核物理学・脳科学・心理学の専門家であり、その理論は音響学と和声理論をふまえた精密なモデルにもとづいて展開されている。なぜ長調は明るく、短調は暗いかという総説では理論を簡明に解説している。

一般的には、短調の曲が暗く悲しげで、長調が明るく元気な感じがする。しかし、シューベルトの場合、シューベルト自身、悲しくない曲なんてあるだろうかと言っているように長調の曲もしばしば悲しい感じがして、パセティックな激情をほとばしらせているような曲もある。イ長調のピアノソナタ(D.664)など、のんびりした感じで美しい調べが流れているかと思えば、いつの間にか調べには日がかげるような感じで痛切な悲しみの影がさしている。ここでの悲しみは、弱さの宥和や緊張といった対他的な側面はほとんどなく、もっと即自的な独り言におけるかなわない憧れや諦めの感情に近いのではないかという気がする。ショーペンハウアーがペトラルカのラウラを例に引いて言っているような悲しみである。すこし長くなるが引用する。「性格は穏やかになり、哀調を帯びて、高尚になり、諦念を示す。ついにこうなれば一定の対象について心を痛めるというのではもはやなく、人生の全体にわたって広く心を痛めるようになり、そうなれば心痛はいわば意志の内向化であり、意志の隠遁であり、意志の漸次的な消失なのであって、意志の可視化であるところの身体は、このような心痛によって静かに心の内奥に埋められてしまうだろう。そのときに人間は自分の絆が幾分かは切断されたと感じとるのである。すなわち身体と意志との同時的な解体として予告されるところの死のやさしい予感を感じる。いつの場合にも心痛には秘められた喜びが伴うにはこれがためである。このような喜びこそ、あらゆる国民の中でもっとも憂鬱な気質をもつ国民がthe joy of grief(悲しみのもつ喜び)と名づけたところのものであると私は思う。」(「意志と表象としての世界」中央公論、世界の名著、西尾訳、p.687.)

「意志と表象としての世界」は、ショーペンハウアーが30才の若さで完成した主著である。西尾氏は、解説でこの作品に若い天才の作品の特徴としての死と愛の哲学が基調にあることを指摘し、「若い人たちは老人たちよりも死に親熟し、死について多くのことを知っているからである。なぜなら、かれらは老人たちよりも愛について多くのことを知っているのだから。」という、トーマス・マンのショーペンハウアー論の言葉を引用している。ショーペンハウアーは経済観念もしっかりした人で、主著完成後、老人になるまでさらに40年生きた。一方、シューベルトはボヘミアンで31才の若さで世を去っている。ショーペンハウアーとシューベルトは全く違うタイプの人で、音楽は特定の主題をめぐっての哲学とは比較できないが、シューベルトの音楽には30才のショーペンハウアーがペトラルカを例に指摘したような、若い心だけが痛切に感じられる悲しみがこめられており、シューベルトの音楽的な早熟の天才がその表現を可能にしたと言えるかもしれない。ショーペンハウアーの死と愛の哲学は別にしても、相互の力関係をはかりながらの対他的な経験を豊富にもった大人とちがって、特定の相手に後先考えずに没入してしまうようなことは若い人の特権だろうし、子供の方が人生の一般的な境界条件にはよりピュアに反応しうる(例えば死んだらどうなるかなどとおののきとともに真剣に考えるなど)といったことは言えるかもしれない。

シューベルトの作品にもどると、ピアノ曲はケンプが弾いたのがCD7枚組のセットである。バランスのとれた良い演奏で、安心して聴けるが、名演ということで言えば、リストが歌曲をピアノ用に編曲した作品をキーシンが弾いたものが良い。とくに、「水の上で歌う」や「水車屋と小川」、「糸を紡ぐグレートヒェン」など、やや穏やかな調べに痛切な悲しみの影がさすような感じの曲は素晴らしい。描写的な音も、水や糸車の音に感情がそのまま宿るみたいな感じがする。ただ、より劇的な曲になるとやや物足りない。「さすらい人幻想曲」(D.760)などは、リヒテルの方がより力強く表現力のある演奏をしている。アファナシエフは「幻想ソナタ」(D.894)など、メロディーに感情がのるという感じではなく、異様に遅いテンポと強弱のコントラストの音のなかかから表現と感情が立ち上がってくるという感じで独自である。弦楽だと、アルバン・ベルク・カルテットは精密で良いが、弦楽五重奏などの劇的な曲になるとハイフェッツ・ピアティゴルスキーなどの方が迫力がある。以上は素人の主観的な感想である。キーシン、リヒテル、アファナシエフ、ハイフェッツ、みなロシア圏出身の演奏家である。素人の選択の個人的偏りなのだろうか、それとも何か理由があるのだろうか?

Tube's dilemma:尖閣ビデオ流出と日本外交に対する岡本行夫氏の意見

2010年11月08日 | Tube's dilemma
尖閣ビデオ流出と日本外交に対する岡本行夫氏の意見 NHK 11月6日

内閣総理大臣補佐官を経験した元外交官、岡本行夫氏の言うことは明快で筋が通っており、国際的な常識にそった意見である。あまりに明快な正論に対し、NHKのアナウンサーはたじろいでいるように見える。これが日本と日本のマスメディアの現実なのだろう。

Tube's dilemma:テロ対策機密情報の漏洩より尖閣ビデオ流失に必死

2010年11月06日 | Tube's dilemma
国際テロ関連情報漏洩事件、尖閣ビデオ流失と政府の情報管理の甘さが問われている。しかし両者の意味あいは全くことなる。

公開できる情報はできるだけ公開し、機密にすべき情報は万全に管理するというのが、まともな民主主義国家としての情報管理のありかただろう。この観点から言うと、警視庁外事課の国際テロ関連情報漏洩事件では、徹底的に機密にすべき情報が漏洩しているのに対し、尖閣ビデオの流失では本来公開すべき情報を国民から隠そうとし、その責任者への不信感が大きかったたためか、情報が流出している。情報流失の経路を徹底的に解明し、その責任を問わなければならないのは、国際テロ関連情報漏洩事件であり、尖閣ビデオの流失で、まず第一に問われるべきはなぜ情報を公開しなかったかで、情報の流失はその後の問題である。

ところが、菅・仙石内閣は、国際テロ関連情報漏洩事件における機密保持を優先問題として深刻にうけとめるのではなく、より尖閣ビデオ流失を問題視しているようで、誰がやったかをつきとめるのに必死な様子だ。まともな民主主義国家としての情報管理のありかたからは、全くずれた対応である。やはり中国への報告の方が、民主主義国家としての情報管理より大切なのだろうか。こんな人たちに国を運営する資格はない。

Tube's dilemma:故意の衝突

2010年11月05日 | Tube's dilemma
尖閣衝突ビデオが流出 週間オブイェクト 11月5日





尖閣衝突ビデオの前半をYoutubeにアップしたのはsengoku38さんである。すでにYoutubeのビデオとアカウントは削除されているが。sengokuは仙石で、38は左派、あるいは中国語で馬鹿、間抜けという意味らしい。仙石左派・仙石馬鹿間抜け(中国語で)という次第。ハドルネームもお見事。

この明白な証拠を前に中国側がどう誤魔化すのか。良い観察の機会だ。今までのようにみずきが漁船に追突してきたとは、普通の神経では、さすがに言えないだろう(もしかしたら言い続けるかもしれないが)。みずきが漁船の進路を妨害した(当たり屋かやくざの台詞だ)。もともと中国の領海なので何が起きても日本に非がある、あるいは、小さな漁船で体当たりしたとは大したものだ(今までの主張はどこへいった?)、なぜこんなビデオの公開を許した(仙石等、配下と見なすものへの叱責)、等々。中華&共産の辞書には、客観的事実という項目はなく、中華共産的真実と反中華共産的虚偽の二分類しかないのかもしれない。元々、共産主義にはプロパガンダを事実より優先するところがあるが、これが中国伝統の言葉による誇張の伝統(江戸時代の思想史家、富永仲基は、中国、日本の癖を称して中国は飾る、日本は隠すと言った)とあいまって、世界に類をみない水準に達している。


Tube's dilemma:「全共闘の亡霊」政権

2010年11月04日 | Tube's dilemma
「理想を失った「全共闘の亡霊」が日本を迷走させる」

他方、何万人という活動家が、逮捕歴などの「前科」のために就職できず、自営業・弁護士・フリーライターなどの仕事に就いた。テレビの制作プロダクションや編集プロダクションを創立したのも、元全共闘の闘士たちだった。
・・・・・・・・
 そんな中で、96年に民主党が結成された。これは崩壊した自社さ連立政権の一部だった新党さきがけに社民党の一部が合流したもので、菅氏は創立メンバーだった。これに解党した新進党グループが合流し、さらに2003年に自由党が合流したため、民主党は統一した理念のない雑然とした政党になってしまった。
 かつて「反体制」に生涯を捧げる決意をし、資本主義を打倒して労働者の理想社会をつくるはずだった彼らの目的は、とっくに失われた。かといって自民党のように、あからさまに資本主義を擁護する政党にはなれない。ただ集票基盤が労働組合であるため、かろうじてその既得権を守るという利害関係だけでつながっている。
 だから菅氏の行動が定まらないのは、もう目指すべき理念がないからなのだ。他方、仙谷氏は人権派弁護士として「アジアへの戦争責任」を追及した頃の行動様式が抜けない。
 どちらも社会主義的な思考様式が残っているため、「雇用を守る」と称して派遣労働を規制するなど、市場経済のロジックが身についていない。
 60年代に世界的に盛り上がった学生運動にどういう意味があったのかは、繰り返し問われるテーマである。米国では、クリントン元大統領のようにベトナム反戦運動に参加した「団塊世代」が政権を取り、かつての左翼の影響はほぼ一掃された。
 しかし、日本では左翼が長く政権を取れなかったため、政治的に未成熟のまま年を取り、今頃政権を取って戸惑っている。
 社会主義の代わりに「福祉国家」を掲げても、財政危機でバラマキ福祉はままならない。かつての「怒れる若者たち」は、今や労働組合と老人の既得権を守る側に回っている。
 全共闘運動には何の意味もなかったが、若者が老人に対して異議を申し立てることは、どの社会でも必要だ。しかし日本では、学生運動のあまりにも無残な失敗によって、若者の抗議活動が絶滅してしまった。(JB Press、池田信夫、11月4日)


池田氏が言うように、菅・仙石民主党政権は「全共闘の亡霊」政権である。日本の団塊世代が、アメリカなどのベビーブーマーと異なるのは、単に政治的に成熟する機会を持たなかったという、池田氏の指摘する点だけではない。1960年代の学生運動は世界的な現象だったが、日本のサヨク運動の特徴は、反日バイアスである。またイデオロギー集団にはつきものだが、日本における社会科学の低水準と外国語運用能力の低さも関連した集団的知的自閉性も顕著である。

1960年代から70年代にかけての学生運動は、権力に関するまともな認識を欠いた(=権力の偏在性と自由主義の原則に基づき民主的に制御された公的権力行使の必要性の認識の欠如)親マルクス主義、アナーキズムの傾向があったが、日本ではそれが、東京裁判史観と結びついた。さらに、日本における社会関係(相手への譲歩と謝罪の有効性)の投影もあり、現在何が生じているのか(謝罪の相手が現在進行形で虐殺、人権弾圧を行っていようともそれに目をつむり、結果として、普遍的であるべき人権への要請をないがしろにし、虐殺と人権弾圧の続行に荷担し)、将来何をもたらすのかとは関係なしに(事実を歪めた糾弾への謝罪が事実の歪曲を確定すること、国内事情を投影した歪曲にもとづく糾弾の継続をむしろ奨励することになる、等)日本を非難し、国際社会で日本が謝罪し続けることを求めるのが、進歩的で、良心的な態度であるという世界的にも珍しい変態的な意識が集団的に定着した。

日本のサヨク運動に関わる人々は、日本における社会関係の投影にみられるように、反日的な言動にもかかわらず、即自的にはある意味きわめて日本的な心性を保持している。言葉についても、菅首相の英語能力に示されるように、日本語を越えて、情報をやりとりする能力に乏しく、また仙石氏の無惨な柳腰外交に見られるように、国際的な場面での経験も多くはない傾向があるようだ。例えば、三島由紀夫と東大全共闘の討論を見ると、どちらも民主主義を否定している点では同じだが、全共闘の学生達が受験秀才としての狭い経験と生かじりの勉強に基づいて観念的に国家を否定しているだけなのに対し、三島由紀夫の方は文学者としての国際社会での経験もふまえて日本へのコミットメントを主張している。

未熟で馬鹿げた学生運動が押さえ込まれ、現実の政治と国家運営に影響しなかったおかげで、日本は文化大革命やカンボジアのクメル・ルージュのような悲劇は経験せずにすんだ。しかし、彼らのなかで集団的知的自閉性による学習と変化への免疫を獲得した人々が、マスコミや政治において権力を掌握し、今日の日本の混迷と危機をもたらしている。