は・ひ・ふ・へ・ほー日記  ~ ho diary ~

最愛何潤東、趣味はピーター・ホーというミーハーファンが、ひたすらピーターのことを語るPeterHo溺愛日記

インタビュー

2008-06-10 05:00:00 | 何潤東

東方網 楊恭如費心畫熊貓 何潤東慷慨獻"亮帽"

Peterがオークションのために帽子にデザインしたのは3匹の魚、水資源保護をみんなに喚起したいのだそうで、最初に描いていた絵はもっと複雑だったそう。
Peterの作品が3.5万元だったようですね。
どんな帽子だったのでしょうか?
見てみたいですねえ…。

廈門網  何潤東:不懂“變臉”

廈門網 何潤東:一捆衣物400斤,但一定要自己搬,這是一種力量

かなり長文、あやふやな訳ですけど、興味をひかれたのでとりあえず全部やってみました。が、あんまり自信ない…。途中で、訳わかんないトコがいっぱいあったし、上手く訳せずイラッとなって雑に処理しちゃったし、ですから、ヘボな文章だとご承知の上、お読みくださいね。

衣料品などが入った荷物の重さは400斤、でも、必ず自分で運ぶんだ、これが一つの力となる

初めてサイン会を開いたとき、たった二人のファンがいるだけ、こそこそと逃げ出すところだった

問:去年のちょうど今頃、あなたのニューアルバム《好想對你説》の全亞洲慶功宴が北京で開かれ、当時、ファンのプレゼントを受け取るのに手が鈍くなっていましたね。

P:(手を振ってみせ、愉快そうに笑う)その日は確かにプレゼントを受け取って“腕がつる”状態になっていたね。ぼくはファンのみんなの応援に本当に感動したよ。

問:デビューするとき、あなたはこんなに派手な活躍ができると思っていましたか?

P:始めたときは間違いなくこんな一般的な考えを持っていたよ、つまり“スターを夢見る”ということだ、“わあ、ぼくはレコードを出して、わあ、歌手になるんだ”というような感じだよ。

問:ファーストアルバムを出したときのことを覚えていますか?

P:(曖昧な笑みで)すごくきまり悪いな。1998年、初めてサイン会を開いた。父は、舞台照明の仕事をしており、息子が初めてアルバムを出すということで、どんと派手にしなきゃいけないと思った。そこで、道端に大きなステージをつくり、豪華な車を準備したんだ。当日、その場に来るファンが二人だけなんて想像もしてなかったんだ。ぼくはずいぶんためらった末、ようやく勇気を奮い立たせて車のドアを開けた。ささっとサインをして急いでその場から抜け出そうと思っていたんだよ。それなのに、車のドアを開けたら、CDショップの店長が派手に爆竹を鳴らしたもんだから、たくさんの通行人の目をひいてしまい、ぼくはもっとばつが悪い思いをしたものだ。幸い、この二人はとても熱心なファンで、ぼくはステージで、しばしまわりの情況を忘れ、全身全霊で歌ウことに集中できた。

問:それは10年前の出来事ですね。10年後、あなたは大人気スターとなりました。

P:でもぼくは心の中に“暗い影”をずっと引きずっていた。去年、台湾で行った、ニューアルバム《好想對你説》の最初のサイン会の前、ぼくの心は恐怖でいっぱいだった。イベントを取り消したいと考えたことさえある。結果としては、当日ステージには1000人を越える人たちが来てくれて、ぼくは驚いたよ。

問:その心の“暗い影”はあなたにどんな影響を与えるのですか?

P:ぼくは成長する過程で多くの“暗い影”を抱えてきた。たくさんの人の援助が、老けない童心を保持し、やっと今に至らせてくれたんだ。

問:どんな“暗い影”なんですか。教えてください。

P:たとえば以前日本で撮った《鬼来電2》のときのことだ。ぼくはそうとうなエネルギーを使って日本語のセリフを覚えたんだ。でも、撮影開始の前の晩、監督がセリフの“チェック(確認、検査)”にやって来て、ぼくはセリフを間違っていると言われた。あやうく卒倒しそうになり、心臓が5秒くらい止まったよ。翌日スタジオで撮るシーンにはたくさんのセリフがあったんだ、ぼくは急におろかなヤツになっちゃった。それから現場で撮りながら覚えていくしかなくて、一日で五歳も年をとったようで、白髪頭になりそうだった。でもその後、精神的心構えができ、またセリフを間違うなんてことは絶対なかった。

孫ができてから、毎日家で絵を描く、子供のときから、漫画家になるのが夢だった

問:デビューしてから現在までにいちばん大きく変わったのは何だと思いますか?

P:デビューするとき何もわかってなかった。自分の考えなんて何もなくて、ぼくがどうするのかと人は尋ねなかったし、そのへんの事情をいいのかどうかなんてまったく考えたりしなかった。でも、それから、それらがだんだんと重要なことに気づいてきて、さらに、自分がしていることに価値を得、ぼくは今ようやく自分の夢をいろいろできるんだ。

問:当時のあなたのいちばんの夢は何?現在の姿?

P:漫画家だよ、ぼくは小さいときから漫画家になるのが夢だったんだ。現在の夢は監督になることだ、漫画家になるのには、まだしばらく待たなければならないと思っている。

問:ふだんは漫画を描いていますか?

P:うん。いつも仕事の合間を利用して描いた漫画をブログに貼って、みんなに見てもらっているよ。うんと年をとってから、レベルの高い漫画作品を出版する用意をしている。だって、漫画を描くのに年齢制限はないからね。子どもや孫がたくさんいて、毎日家に座って絵を描く、漫画家が幼いころからの夢なんだ。

問:監督をする夢は年齢制限があるから先に実現するべきでしょう。今夢を実現するために準備は始めているんですか?

P:映画監督をしたいんだ。でも、具体的な題材はまだ思いついていない。そのときどんな気持ちかを考えなくちゃいけない、だって、人生の段階それぞれで、頭の中で考えることは全部異なるからね。

問:どんな映画を監督したいですか?

P:なんでもさ、ぼくの感覚にあったものであればね。喜劇であれば、ぼくをすごく笑わせるものが成功する。悲劇であれば、ぼくを泣かせるものが成功する。ぼくと郭品超はお互いを“剣四郎”と呼び合っている。(剣四郎は《北斗神拳》の主役だ)

問:あなたは下着メーカーのイメージキャラクターをしていますし、アルバムのカバーも上半身裸でしたね。現在多くの男性スターが筋骨たくましい男性のイメージを演出したがっていますが、あなたは自分の身体つきが素晴らしいと思いますか?

P:ぼくはバランスが重要だと思う。みんな同じ体型ってわけじゃない。たとえば呉建豪、彼の体つきはすごくいいと思うんだ。彼はとても大きくてたくましい。ぼくは、どちらかといえば細長いタイプだ。だから、それぞれ特徴をもっているんだよ。

問:以前、専門のコーチが、あなたと呉尊の体を比べ、呉尊はプロ並みの筋肉を持ちまさに芸術品のようだ、一方あなたは胸の筋肉と“小老鼠”で勝ちを制していると評していました。
…“小老鼠”って…

P:からだが健康なのがいいと思う。呉尊は自分でスポーツジムを開き、自分自身がコーチだね。郭品超も以前フィットネス・コーチだった。ぼくと彼はすごく仲良しなんだ。だから、お互いに意見や心得を交換し合えるんだ。

問:あなたと郭品超は《精武飛鴻》を撮影しているときいつも筋肉比べをしていたそうですが?

P:(腕を上げて筋肉を見せ)当時、ぼくたちはお互いを“剣四郎”と呼び合っていた。剣四郎は《北斗神拳》の主人公の名前だよ。郭品超は立ち上がって“筋肉はとどまることがない、よく鍛錬して北斗神拳と成す”と誓うんだ。ぼくは万元近くで買った二台のトレーニング・マシンで腕の筋肉と腹筋を鍛え、郭品超の大胸筋とくらべようと思ったんだ。ぼくらはトレーニング・ジムへ行くため、常熟から車で3時間かけて上海へ行く。ぼくがトレーニング・マシンに横たわり、郭品超がそばで声を上げている“5回やって、また5回する”。永遠に終わりはない、すごくいい苦しみだ。でも、郭品超は厳しい先生の姿で“こうやってようやく進歩するんだ”とぼくを教育する。

問:あなたはデビューして数年健康を保っていますが、スポーツジム通いがその秘訣なのですか?

P:ぼくの秘訣は運動だね。運動は自分の若さを保ってくれる良い方法だよ。もちろん、気持ちが沈んでいて、物事を悲観的に考えていたら、彼の眉間にはずっとしわができる。だれもがそういう性質ではないよ。

衣料品で400斤の重さがあるが必ず自分で運ぶんだ、それが力を生み出す

問:先日あなたが四川へ募金活動と震災救援物資を送る活動に参加したというニュースを見ました。

P:沈健宏、游鴻明、陳怡蓉ら多くの芸能人と一緒に四川の被災地へ行ったよ。全部で3日間、1日目は重慶で街頭募金活動をし、すごく感銘を受けた。収入の高低を問わず、だれもができるだけ寄付しようとしてくれた。それに歩けなくて友だちに助けられお金を入れてくれたお年よりもいた。二日めは、彭州紅十字センターへ物資の運搬に行った。そこにはすごくたくさんの人たちからの善意の提供物資があった。

問:あなたたちはみな自分でそれらを運ぶのですか?

P:うん。自分で物資を下ろし、水、衣服、靴などそれらを必要としている人たちへ運びおろすんだよ。みんなすごく団結していて、寄付されたたくさんの衣料品や身の回りの品物などが400斤くらいの重さとなっている。それらを全部みんなで心を合わせ協力して運び上げ。また運びおろすんだ。ぜったい自分で運ばなきゃならない、それが力となり、みんなの団結をつくりあげるんだ。

問:最も被害がひどかった被災地の人たちにどんなことを話しましたか?

P:(腕を上げてガッツポーズを作り)被災地の人たちに強くあって欲しい、世界各地の人たちは皆あなたたちを励まし、あなたたちを手助けする方法を考えている、あなたたちの心に残る傷がはやく癒されますように、子どもたちがはやく暗闇から抜け出し、明るい希望を見られますように。

問:被災地から戻り、心の中にはきっと多くの感銘が刻まれたと思います。

P:被害がひどい被災地彭州で、家が壊れ、家族が死傷し、しかし、子どもたちがたくましく笑っているのを見たよ。ぼくが来た成果もしれないけど、あれは子どもたち自身がたくましいためだと思う。この後、自分がどれだけ多くの困難に出会っても、どんなときも強く生きていけると思うよ。今回四川であらゆる不幸を見た後、ぼくは彼らのためにもっとたくさんのことをできればと思っている。

問:あなたと游鴻明は被災地の人たちに捧げる曲を歌ったそうですね。

P:その歌は、今月12日に発表するんだ。偉大な母親の愛を賛美する歌だよ。“5.12”大地震で、自分の子どもを助けるために自分の生命を犠牲にした母親がいる。救援隊が子どもを発見したとき、傍らの携帯電話に一行のメッセージがあった。それは子どもが成長しても、ママが彼を愛しているということを忘れないでと願うものだ。子どもが成長してから、物心ついたときには既に孤児だ、母親の愛がかれを生かしていくのだ。このお母さんはとても偉い、ぼくと游鴻明はこの歌を合唱し、みんなに母の愛情の素晴らしさを訴え、母親を失った子どもがたくましく人生を歩み、また同時に母親の彼に対する愛をしっかり覚えているようにと励ましたいんだ。

チャン・ナラとは互いに助け合う友だちだ

問:マネージャーさんからうかがいましたが、チャン・ナラが台湾で行ったCD発売記者会に参加するため、あなたがメーデーの祝日に予定していた厦門の仕事をキャンセルしたそうですね?

P:一つのイベントをキャンセルしたよ。

問:あなたとチャン・ナラの関係はずっといろいろ噂になっていましたが、当事者として自分の口で何か説明できますか?

P:(とてもまじめに)ぼくらはずっと互いを助け合う友だちだよ。

問:そんなに簡単なのですか?

P:そうさ。ぼくと彼女の家族の関係はちっとも悪くない。でも、ぼくらは忙しくてお互いに顔を合わせる機会は少ない。また話をする機会もわずかだ。かえって彼女のお父さんと会うほうが多いくらいだよ。チャン・パパは彼女のマネージャーだから、あちこちに行くことが多く、時にはぼくらが上手い具合に顔を合わせ、話をしたりすることもあるんだ。あれらのぼくらに関する噂は全部単なるゴシップで正しくない、意地悪なメディアが話を捻じ曲げているんだ。

問:恋愛面では自分が現在どのような態度であり、以前と比べるとどう違っていると思いますか?

P:以前は愛情を渇望し、血気盛んだったのに比べると、今は、自然の成り行きに任せようと思う。そのとき人生の目標がはっきり定まってなかったから、仕事や夢にそんなに力をいれてなかった、だから、今と比べて、昔は恋愛にどっぷり浸れたんだと思う。

問:恋愛ではどんな挫折を受けたことがありますか?

P:(頭を振ってため息をつき)“暗い思い出”もあったなあ。18歳のとき、ぼくは二ヶ月間の漫画を描いて、彼女にプレゼントするつもりだった。そのとき二人ともカナダにいたけど、一人はバンクーバー、もう一人はトロントと、別れて暮らしていた。彼女の誕生日は11月だった、ぼくは9月から筆を執って美しいエピソードの物語を編集していたんだ。インスピレーションの想像が彼女の身の回りにまで漂い、その後二人は抱き合うという、とてもロマンチックなものだった。この漫画のストーリーのため、ぼくの頭は破裂しそうだった。でも大成功を収めるに後数日を残したとき、彼女は突然別れを切り出した。だから、このプレゼントも彼女に贈ることができず今もまだカナダに残っている。

問:それでは今後恋人のために漫画を描くことがありますか?

P:ないね。今後は、恋人にはぼくが出版した漫画を買ってもらわなきゃ。(笑)

終わりのオチ、最高~~!
さすが、Peter、だから大好きだよ。