《風尚志》を入手できないかわりに、この記事はちゃんと読んでみようと思ってチャレンジしたはいいけれど、わたしには難し過ぎて、真夜中過ぎまで取り組むことになった。
半徹夜なんぞして、仕事に差し支えるのに、どうしても途中で投げ出したくてなくて最後まで読んでみた。
途中あやふやなところや怪しいところは素人がやっているからご愛嬌ってことで、と自分で自分を慰めておくことにする。
新浪網 何潤東登《風尚誌》:輕熟男的榮耀(図)
新浪網 高清:何潤東登《風尚誌》演繹熟男誘惑
優酷 視頻:《風尚志微現場》-何潤東
男性スター何潤東が最新号《風尚志》の表紙を飾り取材を受けた。
デビューして十数年、何潤東はずっと努力してきた。
彼が語ったことには
「一人の俳優にとって人にドラマや映画作品の名前を覚えてもらえるというのは、誉れであり認めてもらったということだ。」
取材者手記
もし時間を十年前にもどせるなら、何潤東に言えるのは、まさになすべき事は進んで引き受ける新人王である、若くて高揚していて果敢だ。
彼は歌い、ショーのステージを歩き、海岩の《玉観音》中で傲慢で強情で不遜な毛傑という個性的な人物を演じ、意気盛んな様子羽振りは最盛期だ。
その後、彼は《臥虎藏龍》の中で野性的に自由に振る舞い、愛に固執する羅小虎になった。
《風雲》では愛と復讐に燃える歩驚雲となり、《泡沫之夏》では愛に対して忠誠で二心を抱かない歐辰となり……十数年が過ぎ、何潤東は、娯楽スターから実力派の俳優へと変身を遂げた。
彼は若者や大人の男性となり、大衆は彼をドラマ中の、あるいは映画中の名前で叫ぶのが好きで、もちろん彼はそれを気にしないのだ。
「一人の俳優にとって、映画やドラマ作品の中の人物名で覚えてもらえるというのは、名誉であり認めてもらっていることになる。」
何潤東は芸能界の中でも人付き合いが上手で、同業者は彼に対して賞賛のことばを惜しまない。
高圓圓が言うには、彼は、彼女が今まで会った男性役者の中でいちばん友好的で本当に気立てのいい人だそうだ。(彼女は李世民で共演した女優さんだよね?)
孫儷が言うには、彼は、注意深く勉強家の芸能人であって、演技も人となりも言うこと無しだ。:何潤東は、華鼎奨の時に、こういう標語を獲たと問うた。十年の間、何潤東は、ショーのステージで、舞台の上で、画面で、銀幕で、見て、学んで、歩いていると。
彼の放つスターの輝きは、光り輝く業界すべてを覆い尽くした……多くの瞬きの間にすぐに逝ってしまう流れ星と比べ、何潤東は、ずっと継続して中堅の力量を備えている。
「人の備える天分には付加する点数が一つあるだけ、それが永遠にあなたの運命を決定することができるわけではなく、どんなに人になるかは、その後の努力によるものだ。」
●もし大二のあの夏休みに縁あって《玉観音》の毛傑役を演じなければ、或いは漫画家になったかもしれない。漫画家になることはわたしの子どものころからの夢だった。漫画を読むのが大好きで、買える漫画の本なら何でも読んでいる。寝る前漫画を読むのがわたしの習慣となった“動作”となっていた。
●二年前、一定の間隔をおいていつもブログに自分の漫画作品を更新していた。今は、たまに微博に即興で描いた作品を出している。漫画を描くのはわたしの娯楽だ。かつてある人が千万のギャラでわたしに三年の間に毎年10枚ずつ自分のところで作品を宣伝させてくれないかと持ちかけてきたが、わたしは断った。趣味を商売にしたくない、純粋に楽しみ事、趣味にしていたい。わたしにすれば、儲けることよりももっと重要なことなのだ。
●ドキュメンタリー写真のたぐいを撮るのも趣味の一つだ。ちょっと時間があればわたしは“全身而退”(身をひくということか?)して、国家地理雑誌へ行って、一人のカメラマンとして、カメラを持ってあちこちを放浪してみたい。
●報道には、野外ロケのとき、わたしが、三つのフラッシュ、三脚、ソフトボックス、一眼レフカメラ、スキャナーを携えていく、そのため違うドラマ撮影に入るとまるで引っ越しのようだ。と言っている。この種の話には、かなり誇張した部分があるが、カメラを携帯しているのはわたしの習慣ではある。しかし、今、写真撮影をするのはわりと少なくなっている。主な理由は“数字時代(デジタル)”のせいだ。後からの“行き過ぎた”処理は“本来のものと違う”写真にしてしまう。わたしが好きな作品は真実を写したものだ。“不純物”の混じったものではない。
●一つのことを成すには、もちろん天分という付加価値も必要だが、後からの努力が肝心だ。わたしが撮影を楽しむことのように、美を感知し美を発見するのは一つの事で、技術方面の“模倣して推進”するのを運用することが映像の成否の鍵だ。写真ではこの件でわたしはかなり真面目である。たとえばある雑誌がわたしの撮った写真を使ったが、ディスプレイ或いは風格が原因のせいか、写真の一部をカットしてあった。それがすごく気になって、理詰めで論争することになった。このような習慣も必ずわたしの幸せな負担になって、結局審美眼というのは統一することなんてありえないのだ。“多くの時、間違うのも芸術であり、自然に任せる状態がいい。わたしは骨の折れるものだと思ってない。期待するのを一秒置いておき、もしのびのびと生活を楽しみたいなら、むしろ適切な時期に自分の人生に対して悟ったがよい。”
●ネット上にわたしの五大奇癖が広く伝わっている:腕時計をつけっぱなし、車に乗るときは必ずシートベルトをする、食事をするとき必ず飲み物を飲む、寝る前に漫画を読む、シャワーの時は音楽を流す。腕時計をずっとつけたままであることをのぞけば、そこまで執着はしていない。ほかの四つを“守り続ける”のは習慣になっているとは言えない。たとえば食事するのに飲み物を飲むというのは、細かく追究すると健康には無益なものだ。:さらに、入浴時には音楽を聴くというのは、もし音楽を聴きながら入浴するなら、わたしはすごく長く入浴することになる。そんなのは水の無駄遣いになってしまって環境保護に反する。
●ずっと腕時計をつけたままなのは、わたしの時間観念と関係があるか、もしくは、軽度の強迫症と関係がある。腕時計はわたしの必需品なのだ。食事して、眠って、入浴して、泳いで……いつでも腕時計をしている。だから腕時計の防水性はすごく重要だと言える。腕時計は必ず身につけておかなくてはならない装飾品だけれど、これは決して腕時計を集める習慣があることを意味してない。わたしは革の腕時計バンドが好きでない。幾つか定番スタイルの腕時計を選んで、それからずっとつけている……これはわたしが新しい物も古い物も好む人間だと説明することになる。
●わたしはすごく執着するタイプの人間だ。信条に執着し、愛と夢に執着する。人はだれでも目の前に分かれ道に出会う。一本の道は平らで広々としている、もう一本の道はガタガタ道だ。もし選べるのなら、わたしは絶対に広々とした平らな道を選ばない。腹の内ではわたしはすごく冒険的な精神を持った人間だ。困難を承知で上っていく、もしくは、わたしの身体の閃きというか、見渡す限りの平野の道が前にあるのでないところにわたしは達成感をもつことができ、また内に潜在しているエネルギーを奮い立たせるのだ。わたしは財産がなく、人脈がなくてもいい、しかし資本を持っている、若さがわたしの資本であり、わたしは負けることを恐れない。“幸福というのは自分のしたいことができることであり、目標のある生活が幸福な生活だ。”
●公人の生活と状態は大げさにされるものだが、我々の追求と現在の生活状態は決してお手本ではない。人はだれも生活は異なるものである。だが、楽観的な心のありようは、満足を知ればいつも楽しいという信条を常に持ち、互いに励まし合うことを必要とする。
●仕事が忙しいのはいつものことであり、わたしはストレスを解消する方法を探す必要がある。いつも仕事を終えて帰ると、半時間くらいゲームをしている。脳が空っぽになる状態が現れ、ゲームの効果音をのぞいて、わたしは、そのほかの音を遮断することができる。多忙であろうとも、自分の気晴らしをする時間をあたえなくてはならない。たとえ半時間でも或いは15分間でも、要は気ままにできるプライベートな時間を持つことだ。
●わたしはコンピュータゲームをするのが好きだし、バスケットボールをするのが好きだし、筋トレも好きだ。でも、バスケットボールをするようなことはもう贅沢なことになっている。時間を見つけたり数人で集まってプレイする機会を見つけたりするのが難しいからだ。余りに長い間バスケットボールをしていないため、1ゲームし続けたらきっと疲れて腹ばいになってしまう。筋トレをするのは遅らせることができない、結局、身体の健康は生活の中で最重要なことなのだ。それ以外に、スポーツジムへ行く重要性は体格をよくするだけでなく、それは、気力と道徳心を訓練しているのだ。筋トレというのはずっと続けるのが難しいから、多くの人は年会費を払い、2週間行ってすぐ行かなくなる。だから、ずっと続けることができるのはとてもすごいことなのだ。
●男性の性的魅力も重みのあるものだ。セクシーというのは見かけだけで中身がないのでなく、安全な感じや責任感を必要とし、心のうちに混ざり入っていく。セクシーとは内外の結合したもので、すなわち一目で看破される男性は魅力が欠乏している。
●善人悪人、いろんな役に扮したことがある。本当のわたしは一人の健康で明朗な人間だ。わたしの受けた教育が最初子供のころちょっと鬱屈し不足な感じにさせたがその後、今日わたしは明るく朗らかな性格になったーー身を処したり演技をしたりするにかかわらず。
●もし自由が選択する種類のものなら、そのように選ぶ自身はもう自由ではない。デビューして十数年、だれもがわたし何潤東と叫び、またわたしの作品中の名前を叫ぶが、わたしはすべて喜んで受け入れている。一人の俳優にとって、映画やドラマの作中の名前で覚えてもらえるというのは、本人には一種の栄誉であり認めてもらっているということなのだ。
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何潤東(宮洺)の愛する人は永遠にこの世から消えて、残った人間は悲痛な思いが身につきささる。
生まれ来世に行き、死というのはいかなる変化もなく、心のうちに大きな穴があき、部屋の中にはあなたの残した匂いがある…。このはかなさは不安定な苦痛をつかんで、彼と彼女は耐えることができない。陳意涵(林蕭)
彼は氷が張り付いたように冷たく、厳冬のように話し、目つきは冷たくてまるで裸で雪の上にいるようだ。
何潤東(宮洺)あなたは宮洺が冷ややかな人だとは言わない。
ただ彼は選択している、持っている感情と熱意をすべて喬任梁(崇光)に与えることを選んだのだ。
彼の世界をそれを中心として回っている。
彼は寂しさを漏らさない、そのため孤独に見える。