沙耶の唄~埋没、覚醒、気付き~

2012-08-23 18:57:04 | 沙耶の唄

これまで、殿堂入りした作品として「YU-NO」、「君が望む永遠」、「沙耶の唄」、「ひぐらしのなく頃に」を取り上げてきたが、YU-NOを例外とすればその全てが受容環境(受容の仕方)も考察の対象としている点に特徴がある。

 

沙耶の唄の場合、焦点は作者の期待する解釈と(多くの)プレイヤーの反応の齟齬にあるが、具体的には、プレイヤーたちが予想に反して沙耶の側にかなり同情的な見方をし、結果として同作を「恋愛モノ」とみなしたということであった。これに対し私は、作者の要求する視点・傾向がそもそも的外れなもので、むしろプレイヤーの受け取り方が必然的ないし妥当なものだと評価した(もっとも、彼らの視点を全肯定するわけではない。「disillusionの内包」という記事でも触れたが、沙耶の側を対象化する演出もきちんと組み込まれているからだ)。これが「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」、「二項対立と交換可能性」、「異物に対する同一化傾向」、そして「エンディングの『失敗』」といった一連の記事であった(「エンディングの『失敗』」の方が先に書いた記事だが、編集の都合上「異物~」を先に言及する)。さて以下、それぞれの内容を簡単にまとめてた上で、さらに追加すべき事項を書いておきたい。

 

(1)「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬

ここでは、プレイヤーの傾向(由来や思考)つまり拠って立つ文脈が作者の期待するものと異なることを様々な観点から述べた。詳細は繰り返さないが、その結果として、膨大な作品のアーカイブを持った人間がプレイするという目論見が外れ、プレイヤーは諸々の演出や視点を対象化してシニカルに対応できるはずだ、という作者の予測が大きく狂うことになったのであろう。

ところで、私はこのような計算違いがむしろ良い方向に作用したと考えている。というのも、作者が期待する反応は、様々なる意匠で頭でっかちになったディテールマニアが引用や原典当てに勤しむものであって、それはこの作品を凡作へと貶めるだけだからだ(なおこれは、エヴァンゲリオンの世代による受け止め方の違いとも通ずるものがあるように思える)。沙耶への同情的な視点からコミットメントが生じ、それによってこの作品は作り手の凡庸な思惑を超え、適切な評価をされるに至ったことを喜ばしく思う。

 

(2)「二項対立と交換可能性

この記事の中で言ったのは、すでに「洗脳」が済んだあとで視点を切り替えても遅い、ということだ。これは、先に述べた事情(=プレイヤーは膨大なサブカル作品を見てきたわけではない)ゆえにアーカイブを背景としたパターン認識による無害化が起きなかったことも大きいが、あるいは映画(の視点)とADVゲーム(の主人公主観)の受け取られ方の違いについて、作者があまりに理解していなかったということも考えられる(「ソウルイーター~all redacted~」における映画とアニメの違いなども参照)。また、表題にもあるように郁紀視点と耕司視点の等価性もまた沙耶を異物として認識させる上ではマイナスの方向に作用したと考えられる(とはいえ、その方がこの作品にとって良かったことは改めて強調しておきたい)。

なお、以上のような演出などの予期せざる影響に関しては、「中間体」(仮題)という記事でいずれ触れる予定。そこでは、「おもしろい」からそういう作品を作ったが、それがなぜおもしろいのかはわかっていない・・・といった話(ex.製作者と批評家のズレ)をすることになるだろう。

 

(3)「異物に対する同一化傾向

日本人はロボットなどの無機物も含め異物に対して親和的なのではないか、というのがそこで述べた趣旨である。取り上げたのはゴジラや鉄腕アトム、そして「ロボット」の初出となったチャペックの『R.U.R』などだが、「聖☆おにいさん」や「よんでますよ、アザゼルさん」、あるいは風呂を通じて盗賊や現代人とも融和してしまう「テルマエ・ロマエ」などを視野に入れ、(善悪など含めた)「境界線の曖昧さ」として「日本的想像力」などと考えてみるのもおもしろいだろう(そういう視点を取れば、「波打ち際のむろみさん」も同じような特徴を持つと言える)。

とはいえ、EDテーマ「沙耶の唄」のYou Tubeにおけるコメントを見ても、作品のambivalentな特徴・方向性を外国人たちも適切に読み取ったり議論したりしており、これを完全に日本人特有の反応と捉えるのは愚の骨頂ではあるが(これは「萌え」についても同じことが言える)。

 

(4)「エンディングの『失敗』」・「同2

沙耶と郁紀が離別するエンディングは、前述のようなプレイヤーの解釈を決定的なものにしたと言える。もし沙耶を異物として受け手に認識させたいのなら、その「本当の姿」が知覚された時、あるいはそうなりかねない選択を郁紀がした時、死もしくはそれよりも恐るべきカタストロフが生じる、いやそうしなければならなかったはずだ。にもかかわらず、元の世界を取り戻したいと言った郁紀の選択を沙耶は否定しないばかりか、自らの手で「正常」に元してやるのだ。この行為は、自己を否定され恐れていた孤独な状況に戻るという意味でも、生殖という目的の点でも明らかに不合理だが、ゆえにそれは、たとえもう会えなくなっても、子孫を残せないことになっても、愛する人の願いを叶えたいという自己犠牲の精神(献身)としてプレイヤーには受け取られたのではないかと推測される。だとすればそれは、受け手の覚醒を促すどころか、むしろ「恋愛モノ」たる認識を強めただけであったに違いない。「恋愛モノ」というプレイヤーの評価(および「純愛」が描かれているとさえ考える人が少なくないこと)の必然性と妥当性はまさにここにあり、そしてまた、この後でいくら沙耶の由来を説明したとしても、もはや手遅れであったと言えるだろう。

なるほど、作者はその非合理的な振舞や自己犠牲を、それもまた模倣されたもの=「エミュレーター」という言葉で説明しようとするかもしれない。しかし例えば、次のような場面を思い出してみるといい。涼子の手によって瀕死の重傷を負った沙耶を見て絶望し、自らの用意した斧で自殺する郁紀。そこに瀕死の沙耶が這いながら近づいていく。それを見た耕司は、そこで見せられた異形の者共やそれへの恐怖(+不条理な仕打ち)が怒りへと変わり、抵抗しない沙耶を鉄パイプで滅多打ちにする。それでも郁紀に近づくことを止めない沙耶は、とうとう郁紀の元へたどり着き・・・というシーンだ。少しでも冷静さが残っているなら、おそらく耕司の(やり場のなさも含めた)怒りと攻撃が全くのところ必然的なものであって、責めるべきものでは全くないことに気づくだろう。しかし一方で、そこで流れるsilent sorrowの物悲しさもあり、彼の行為(立ち位置)はあたかも悪役のそれのように見える。そのことは、沙耶の決死の行為(献身・自己犠牲)とともに、「最後の瞬間までその怪物は、郁紀を手放そうとしなかった。そして郁紀と繋がったまま死んだ。耕司は、ついに自分が何も取り戻せなかったことを知った」という、明らかに耕司を敗者として書いた文言からも強く印象づけられる(再度強調しておくが、耕司は何も悪意を持って行動しておらず、その恐怖や怒り、そしてその爆発は非難すべきものでは全くない)。以上のように、極限状況でもなおその自己犠牲や献身の精神が発揮されるのならば、一体そのどこに人間との違いが見いだせるのか、と問いたい。

思うに、作者は「人間性」とでも言うべきものが、人間にとって天賦のものだと捉えているのだろう。ゆえに、沙耶のように後天的に獲得した「人間らしさ」は、たとえそれがどんなに精緻に「コピー」されたものであっても、「エミュレーター」(=サルまね?)にすぎないというわけだ。この発想は、一見わかりやすく妥当なもののように見える。しかしながら、認知科学や薬物が発達して人間の動物性が明らかになり(=精神分析は廃れて)、またそのような状況を元に訓練よりもバイオメトリクスで支配する生ー権力的枠組みが広がりつつある今日(公共の機関ではないが、一番わかりやすい例はマックの椅子)、実はそういった見方こそ「近代的」な時代遅れの思い込み、あるいは人間を特権的存在としてみる傲慢さにすぎないのである(これはポストモダン的視点とも言えるが、古くはスピノザなどの思想にも、「人間―機械」的発想は見られる)。作者は、宗教戦争などの狂気の歴史に言及したり、あるいは「理性も狂気」といった発言を設定資料集でしているが、そのようなある種のシニカルな視点の背景に、このような人間へのある種の信仰が存在していることは明記しておくべきことだと考える。というのもそれは、たとえば「太陽を盗んだ男」の主人公の(対象化されざる信仰と)限界などとも類似のものであるように思えるからだ。

 

以上となるが、この作品は埋没と覚醒の要素を双方きちんと埋め込んでいる結果、私たちがいかにささいな演出で「感情移入」や「共感」してしまい、操られるのかということを我々に気づかせてくれる。ゆえにそれは、「風景の狂気」ではなく教訓となって、埋没と狂気の構造に関する真摯な考察と問いを生じさせるのではないだろうか(→「THE WAVE」、「ヒトラー最期の12日間」)。このような経験や理解をもって初めて、「理性もまた狂気」と言いうるだろうし、また狂気は単なる知識ではなく処方箋のある現象となるのではないか。そのように思う。


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