沙耶の唄:沙耶のビジュアルが持つ意味と効果

2011-11-21 18:37:36 | 沙耶の唄

さて、前日に引き続き「沙耶の唄」のことを書くとしよう。二つの問題がある。

まずプレイヤーに関して。

キャラというものは作者の手駒である、という感覚が決定的に欠落している。

この前のもやしもんで言うなら、武藤という人物がいて地ビールの評価を話すのではなく、作者が話させているのである。

「こころ」の先生やK,カラマーゾフのイワンやスメルジャコフ。そういう役割を振られているからそういうふうに振舞う。

まあヨーロッパの演劇でだったか、悪役を演じていた舞台役者をブチ切れた観客がポアしちゃったこともあったらしいから、この手の「勘違い」は結構ユニバーサルなものなんだろうけど。

君が望む永遠で問題を鳴海孝之にしか帰属できない。「三国志きらめく群像」の中でだったか、三国志演義を見て曹操が死ぬほど憎いと言った人がいたらしいが、そりゃそういうふうに描かれているからだわな。白痴的。歴史上の人物への反応。

東浩紀は、大きな物語ではなく個々のフラグメントに耽溺する様をデータベース消費と呼んだ。正しい見解だと思うが、

恐らく作者の手駒であるというのは言われれば納得するだろう。しかしそれでも、自立した何かとして感得する、せざるをえない。それがキャラの現前性ということだ。

ひぐらし、うみねこの作者の理解度の高さ。ベタにリアリティを要求するだけの連中のなんとナイーブなことか。

作者の話。キャラにしか還元できないのも白痴的だが、その傾向に全く無頓着な作者もアホ。もし「沙耶」が大人の女性のビジュアルだったらどうだろうか?醜女なら?老婆なら?男の子なら?中年男性なら?果たして今ほどに庇護の感情がくすぶられたり沙耶に同情的な見解が出てくるであろうか?少なくとも私はそうは思わない。私が沙耶のビジュアルを少女にした戦略性と言う時念頭にあるのはそのような認識に他ならない。

 

両方とも埋没。「終末の過ごし方」でも書いたが、何が「わかって」るのか言ってみろよと思うね。

 

<原文>
以下の記事は完全にネタばれとなっている。その点をふまえて読んでもらいたい。「沙耶の唄」は異常と正常の境界線、構成の緻密さ、「説明不足」の問題を始めとして様々な影響・衝撃を私に与えたが、実は二年ほど前に再プレイした時全くと言っていいほど新発見がなかったということがあり、ずっと寝かせたままになっていた。今回は「ぼくらの」を見た影響で始めたのだが、その中で思わぬ収穫があったので書くことにしたい。


今回のプレイで突然気になったのは、「なぜ」沙耶が少女のビジュアルをしているのか、ということである。「鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」において、キャラが作られたものであるにもかかわらず、そのことが本質的には理解されていないと述べた。もちろん、キャラのあらゆる要素が何らかの作者の意図を反映しているというのは明らかに言いすぎなのだが、それでも沙耶については元々がそのような姿をしていない以上、あのビジュアルに強い意味があると考えるのは十分に理由があると思うのである。


そう考えた時に私が思い出したのは、前掲の「説明不足」に関する記事でも述べた郁紀と耕司の、より正確にはそれぞれのパートナーの描写のアンバランスさであった。もう少し説明すると、異物の側である沙耶については背景や内面が描かれる一方で、涼子はそういった描写がほとんどないばかりか、むしろ突き放すような言動さえしているのである。そしてこのような非対称性の狙いは、理解が難しい沙耶の側にプレイヤーを引き付けることにあると論じたのであった。


以上のような見地に立てば、少女のビジュアルは単に彼女の純真さを象徴するであるとか醜い世界で際立つといった視覚的な問題に留まらず、涼子や青海、瑶といった成人女性との非対称性をなすことでプレイヤーの保護欲をかき立て、(彼女の疎外感や承認願望の描写と連動して)ますます彼女の側に引き込むのが狙いだと考えられる。要するに、沙耶のビジュアルもまた、彼女の側にプレイヤーを引き込むための演出であったと言えるだろう。


沙耶のビジュアルの意味と効果に関する考察は以上である…と終われれば楽だったのだが、「沙耶の唄」の設定資料集(2005年発行)における作者(虚淵玄)のインタビューを見る限り、事はそう単純ではない。というのも、彼は沙耶の唄がホラーではなく「恋愛もの」として受け止められていることに戸惑いを表明しているからだ(しかも彼自身は、そのズレの原因を考えているにもかかわらず、答えが出せていない)。もし彼が、とにかく沙耶の側にプレイヤーを取り込むことを目的としており、それによって徹底した価値転倒を目指していたのであれば、このような反応はしないだろう。


より正確に言えば、沙耶の側に引き込む演出が様々なされていると同時に、そこから距離を取らせるための描写[例えば瑶の改造であるとか、沙耶の態度が人間の模倣からきているといった話]もきちんとなされているのであり、それにもかかわらず前者だけが強く意識されていることに虚淵は戸惑っているのだと考えられる。正直これは描写の前後関係(沙耶から距離を取らせるための描写は後半になってから登場するのであり、前半ですでに沙耶のイメージが出来上がってしまっている)が大きな要因となっていると思うのだが、一方で虚淵の発言に見られる「シニカルさ」への期待や無垢というものへのプレイヤーの反応に対する無理解(ないしは軽視)もまた、認識の齟齬に大きな影響を与えていると考えられる(そしてこれが、前掲の「鳴海孝之への~」の内容と連動するのだが)。


よって次回は、そのような視点から論じていくことにしたい。


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