江古田ちゃん~「萌え」、無害化、ノイズ排除~

2012-06-21 18:46:27 | 本関係

前回「江古田ちゃん~『猛禽』と適応」の中で、そこで描かれる「猛禽」の振舞が男性の欲望する姿への戦略的適応であり、それに気づくことなく猛禽のことを「ひがむ」女性のことも許容してやるという風な男たちのベタ・ナイーブ態度に嘲笑・侮蔑の眼差しを向けるのは当然だと書いた(自らの規範に無識であるがゆえに、彼女たちの振舞がコミュニケーションの合理性・戦略性に基づいてものにすぎないことにも気づかない)。さて、ここでたとえばボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉を引き、ジェンダーに関して考えてみるのもおもしろいだろう(一応言っておくと、昨今ではsexを「身体的な性」、genderを「社会的な性」と単純に分けるのを避ける傾向にあるようだ)。ただ、筆者の興味はもう少し違うところにある。それは前掲の記事の最後でも触れたように、一つが(特に男性の)「萌え」、もう一つが「空気」であるが、今回は前者について書いてみたい。

 

とはいえ、「萌え」という言葉は非常に厄介である(個人的には「萌え」≒cutenessだと思っている)。人によって「萌え」る対象が様々だからだが、これに関してカラスヤサトシが『萌道』の中でおもしろいことを書いている。すなわち、

「一般的に男性向け萌えは完成度の低さ、未熟さや失敗が売りになっているのに対し、女性向け萌えは完成度の高さ、完璧すぎるほどのサービスや身のこなしが求められる」

と。これは、未熟さを微笑ましさ・可愛らしさとして「萌え」る男と、ハイレベルなホスピタリティーを要求する(=に「萌える」)女と言い換えることができるだろう(もっとも、たとえば女性が小動物に「萌え」るのはどうなるのか、といった問題はあるが)。

 

女性に関することはともかくとして、男性が求める「萌え」の特徴として、上記のような見方は妥当であるように私には思える。というのも、最近よく取り上げている「空気系」やエロゲーエロマンガを始めとして、そういったキャラ・作品で溢れかえっているからだ。たとえば「ツンデレ」は、元々態度のギャップが大きい人間類型を指した言葉であったが、今では「本当は好きなのに逆の態度を取ってしまう」人物として描かれ、しかもそれがもうバレバレであることが微笑ましい=「萌え」るというものに変わっているように思える。また必ずしも「萌え」とイコールにはならないが、斎藤美奈子の『紅一点論』や斎藤環の『戦闘美少女の精神分析』で書かれた、アニメなどでの戦う女性キャラの描かれ方と海外のそれの違いも、か弱い女性が過酷な環境で闘う日本の虚構と屈強な(アマゾネス的?)女性が闘うアメリカのそれの違いと見ることができるのではないか(まあこれは格闘ゲームにも言えることで、単に文化的差異の表象だけでなく、マーケティングなども関係しているのだろうが)。このように見ると、攻殻機動隊の主人公(少佐)は極めて例外的なキャラクターだと言える(セクシャリティ&セックスの描写について禁欲的でない原作は特にそうだ)。また今回主に取り上げている二次元の作品群ではないが、「不機嫌な果実」やsex and the cityなどは、それに反する女性像の例として参考になるだろう。なお、一時期話題となった「泣きゲー」に求められていたものも、この「萌え」の話とかなり密接に結びつくように思える。というのも、kanonなどが典型的だが、それらはトラウマを持ったorコミュニケーション不全の=「か弱い」・「劣った」少女に「萌え」、彼女らを救うことで癒される話だからだ(ちなみに、こういった構造に意識的なのが「魔法少女まどか☆マギガ」や「さよならを教えて」、「少女革命ウテナ」であり、また無意識ではあるがプレイヤーに埋没を追体験させ、しかもそのことに気づかせるという意味で「沙耶の唄」は重要な作品である)。

 

以上、「萌え」やそれに類する反応の特徴に関して述べたが、これに関して「架空の世界だけの話ではないか?」あるいは「架空の世界に単純に欲望が投影されていると言えるのか?」といった疑問が出るかもしれない。しかし私はこれが現実の関係にも適応できるものだと考える。というのは、「ツンデレ」のところでも書いたが、要するにそれは対象を非他者化=予定調和内に収めノイズを排除する見方・行為であって、それは現実のキャラ的人間関係に他ならないからだ(「『調和』と『地雷』」、「さるかに」)。まあこうなると話は男性の女性観だけに収まらないことになっていくので、それは別の機会に触れるとして・・・

 

このように書かれると、不当な批判を受けていると感じる人も少なくないだろう。そして私はその感情を必然的なものだと思う。なぜなら、「萌え」る行為態度に、明確な(conscious)悪意はないからだ。たとえばさきほど、私は「泣きゲー」のところで、あえて「劣った」少女という表現を使った。しかしながら、たとえば「お前らはしょせん劣った存在だから愛玩動物がお似合いだ」などと思って対象に「萌え」たり愛でたりしているわけではないだろう。ゆえに、可愛らしいものとして対象をめでているだけなのに何が悪いの?と考えるのは不思議なことではない。言い換えれば、それらを問題と認識することすらしないだろうし、ゆえに変えるのは非常に困難であろう、ということだ(まあ「猛禽」が繁栄するのも当然ということですわw)。

 

このようなある種の(気付きの)困難さについて書いたのが、「子供は天使じゃない」、「いい人」問題などであり、またそれゆえに「ヒトラー最期の12日間」やTHE WAVEのような作品が重要だと繰り返し言ってきた(ちなみにフランクルの『夜と霧』は一度も取り上げてないが、その理由は近いうちに書く事になるだろう)。少し視点を変えるなら、自分が当然だと思う(不自然に感じない)枠組みを考えてみる必要がありはしないか、ということだ。これは個人的な経験だが、大学二年の時に半月板を痛めていた頃(ちなみに大学3年の時に慶応病院で手術した)、大学のキャンパスで和式便所しかないところがあり、そこで大いなる苦痛と困難の中で用を足したことがある(なぜ和式のみなのかと半ば殺意すら覚えたw)。それまではせいぜい「和式より洋式の方が使いやすい」くらいの認識しかなかったが、この時から以前よりはきちんとバリアフリーなどについて考えるようになった。また全面的に賛成するわけではないが、たとえば人種や性別の構成を意図的に調整するアファーマティブアクションの考え方も参考にはなるだろう(何も手を加えない状態=理想、というのはあまりに単純すぎる思考態度ということ)。自分が今いる制度や、それに影響を受けて生じた思考様式は、決して自明なものでないことは言うまでもない。それを述べたのが「キム・ギドク」であり、また「ソウルイーター」の分析記事だが、「猛禽」が生まれる(求められる)土壌に関する思考もまた、そのような問題への意識へと繋がるであろう。


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