♰ 沙耶の唄:二項対立と交換可能性 ♰

2019-10-15 12:38:08 | 沙耶の唄

泣きゲーへのアイロニー?」に引き続いて沙耶の唄レビュー(?)復活第四弾。

 

今回は原文がアホみたいに長い(なんせ文字だけで4000字近くもあるw)ので手短に説明しておくと、この記事の意図は、前掲の「泣きゲー~」で書いた主人公主観の問題をさらに発展させ、沙耶の唄における視覚的表現方法が沙耶・郁紀―耕司の等価性を意識させるものになっていると具体的に示すことにある。つまり、例えば二枚目の絵をもって「こんな見え方はありえない」というようにリアリズムの立場から批判しているわけではない(より端的に言えば、私はそういう方向性の批判に意味を感じない)。あくまで、そういう表現方法を取っているがゆえに、受け手が沙耶の側に引きずられてこの作品を「恋愛モノ」と認識するのは何ら不思議なことではないと説明するのを目的としている。それにしても、作者はなぜここまで交換可能性を印象付ける演出をしておいて沙耶が異物と認識されることを信じ得たのだろうか?げに恐ろしきは、様々なる意匠で飾り立てただけの閉塞した想像力である。これはいずれ「ひぐらしのなく頃に~とあるプレイヤーの証言~」の続編で世代間ディスコミュニケーションの構造と絡めて話すつもりでいるが、いつ完成するかは今のところ未定であるw

 

<原文>
虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」と「『泣きゲー』へのアイロニー?」によって、「沙耶の唄」の評価が虚淵玄(以下「作者」)の期待したものと異なっていること、そしてその要因を分析し(作者の時代状況の認識に問題あり)、さらには設定資料集のインタビュー内容が韜晦や捏造ではないことを確認した。要するに、土台を確認した上で時代状況という大枠から話を進めたわけである。次に私は「「エミュレーター」とその描き方」という草稿で若干触れたような、個人的経験も含めた具体的な方面から話を詰めていきたいと思っているが、その前に私の立場を明確にしておきたいと思う。


私はインタビュー記事がそのまま信用すべきものだと論証したわけだが、これによって問題はむしろ混迷の度合いを深めることとなった(というか、それがわかっていたため、確認の意味も込めて本当に記事が信用できるのかをまず分析したのだが)。なぜか?簡単に言えば、インタビュー記事の内容のような意図をもって作られたものがどうして現行の「沙耶の唄」のような内容になるのかが、私には全く理解できないからである。いや、意図と表象の齟齬など狼狽するに値しない、と言う人もいるだろう。いかに多くの誤読がなされているかを思えばそれはもちろんその通りである。しかしそれでも私が理解に苦しむのは、深遠な意図が稚拙な表現になることはあっても、その逆の(しかも甚だしい)パターンを今までに一度も見たことがないからである(まあアフォリズムみたいな短いものであればいくらでもありえるだろうが)。インタビューに見られる、はっきり言ってレベルの低いナイーブな作者の意図が、なぜ「沙耶の唄」のような作品として結実するのか?各々を別個にはよく理解できるだけに、ますます両者の縫合が困難に思えてくるのである(というか、これほどまでの齟齬に本気で気付いていないのなら、虚淵玄という人は相当頭が悪いのだろう。そう思わざるをえないほどに両者は相いれないのだ)。以下、インタビュー記事、そして沙耶の唄本編のそれぞれから読み取れる内容について考えてみたい。


前者は、沙耶を単なる異物として扱う立場である。より大きく言えば、郁紀の側を対岸の存在、つまりは「風景の狂気」としか考えないということだ。このような視点を作者が持っていたことはそこかしこに証拠がある。例えば、沙耶が人気者になると思っていなかったという発言、郁紀と沙耶の子供たちが世界を包む世界を「バッドエンド」とする評価、郁紀を追う耕司視点になった段階でプレイヤーが耕司の視点でモノを見るようになっているだろうという認識、などなど…後に述べるようにこのような姿勢は本編から読み取れる主張とは隔絶したものを感じるが、これ自体は理解しやすい。というのも、「排除=狂気」という発言をあえて無視して単純化すれば、要するに「ヒーローVS悪役」的な視点なのだから。


一方、後者によって印象付けられるのは郁紀の側と耕司の側の交換可能性(「優劣」ではない)である。作者は沙耶を「エミュレーター」、つまりは生殖のために人間の模倣をしているに過ぎないと述べているのだが、郁紀が精神病院に入るENDING1における沙耶の(生殖という観点から見た場合)不合理な行為から印象付けられるのは、むしろ沙耶と人間の近似性である。あるいはそれは、人間が特権的だと思い込んでいるものの客体化ないしは相対化だと言ってもいい。そしてこのような印象を持ちながらプレイしていればこそ、耕司が生存するエンドにおいてなされる「真実」が薄氷のようなものに過ぎないという言葉は初めて重みを持ちうるのではないか(価値転倒を経ずにそのような言辞を並べても、陳腐以外の何物でもない)。さらに言えば、そういった交換可能性と価値転倒を含んだ内容であるからこそ、ADV(この場合より正確にはサウンドノベル)という形式を採用する戦略性が出てくる。人間が視覚依存度の高い生き物である、という話を聞いたことのある人はいると思うが、単純にそれだけなら映画や漫画も同じである。しかしADVにおいては、主人公主観が採用されることが多く、テキストを自分のペースで読むことができ、さらには選択も自分で行えるという特徴を持っている。要するに、映画や漫画以上に主人公に没入しやすい形式を備えているのである(そしてそのような特性を利用した傑作が、「※※※※の※※※に」(censored)やら「××××を××て」(censored)である。ちなみに前者については、沙耶の唄を初プレイした2005年8月の翌月にこんな記事を書いている[題名がわかり、かつネタバレOKな人のみ読んでくださいな])。


それだけではない。郁紀と耕司視点を比較して感じるのは、その等価性である。といってもピンと来ないと思うので簡潔に言うと、郁紀の視点は彼の主観でしか成立しえないはずなのに、第三者視点で補われているのである。まあ論より証拠。以下の二枚のCGを見てもらおう。

 

           

 

 


同じ第三者視点でも全く違うことに気付いただろうか?
別に前者は説明の必要はない。私たちにとって当たり前の風景だからだ。しかし、後者は違う。耕司が目にすることになる虹色の部屋(painted room)を思い出すまでもなく、明らかにありえない視点だからだ。一体これは誰のものなのだろうか?…とこんな話をしていると、私が「※※※※の※※※に」(censored)のアニメ化を批判した記事を思い出してリアリティの問題かと思うかもしれないが、そうではない。私がここで強調したいのは、このような表現方法がADVの特徴と相まってプレイヤーたちを沙耶の側に否応なく引きずりこむということ、もっと言えば、沙耶を異物と思わせたいのならこのような演出は明らかに逆効果である、ということに他ならない。なぜなら、繰り返すが、上記の二枚のCGから印象付けられるのは、二人の(側の)視点の等価性だからである。もし、あくまで耕司の側を正しいものとして見せたいのであれば、郁紀を主人公主観のみにして、耕司だけ第三者視点を採用すべきであったろう(上記のCGの時点で郁紀の主観に限定するのはあまりに早くプレイヤーに違和感を抱かせてしまうこととなりかえって興ざめさせてしまう、という配慮が働いたとも考えられるが、インタビュー記事を読む限りでは、優先順位的にそれでよかったの?と疑問を投げかけざるをえない)。しかも、ご存知のように沙耶の唄は郁紀視点から始まり、耕司視点が入り込むまで多少時間がかかる。おそらく、その時点までで郁紀側(の視点)に影響を受けてしまった(≠没入)プレイヤーが少なからずいて、それがENDING1などで固定されたのではないかと考えられる。要は、耕司視点が始まったところで彼にプレイヤーの重心がシフトしたと考える作者の予想は的外れで、彼が出てきた時点ですでにある程度のすり込み(仕込み)が完了していたのではないかと考えられるのである(※)。


長くなったのでまとめると、少なくないプレイヤーの意表を突くであろうENDING1や耕司生存エンドにおける「真実」の位置付けといった内容的側面だけでなく、ADVという形式そのものや視点の等価性という表現形式、演出などあらゆる要素が連動し、その結果として本編からは交換可能性(単純化すれば絶対善、絶対悪の不在)が強く印象付けられる、ということである。


以上みてきたようなADVという形式の特性、ENDING1を始めとする具体的な中身(次回具体的に述べる)、そして前に述べた時代状況を考慮に入れれば、繰り返すが沙耶の唄がプレイヤーたちに「恋愛もの」だと評価される(=郁紀視点に引きずられる)のは必然的なことで、むしろそれを予想できなかった方がどうかしているとさえ言えるだろう。以上。


(補足)
さて、これまでの内容を見てきて、作者のナイーブな二項対立的視点ではなく、作品から読み取れる交換可能性の方を私が高く評価していることは読者の目には明らかだろうと思うし、それは真実である。そして私がお願いしたいのは、以降の沙耶の唄に関する記事を読む際、常にこのような評価を意識してほしいということである。もしそれがなされていれば、私が行おうとしているのが実態の分析であって、決して改悪の要求ではないことが理解されるだろう。

 

(※)
インタビューにおいて作者は自主製作映画をやっていたとか漫画の~に影響を受けたなどと話をしているのだが、その割になぜこのようなADV(サウンドノベル)という形式の持つ特性にさえ一言も言及がないのか全く理解に苦しむ。まあはっきり言ってしまえば彼には自分の中しか見えていないということなのだろうが、沙耶は異物という(シニカルな)視点をプレイヤーが当然のように共有できるはず、という時代錯誤な感覚が、それほど強く作者を縛りつけていたということなのだろう。なお、この「時代錯誤な感覚」については排除の論理の問題から別の機会に切り込む予定である。


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