ソウルイーターに関する「『政治的に作られた』アニメ」という記事で言葉足らずな部分があったので、補足をしておきたいと思う。
前回「映画を政治的に撮る」というゴダールの言葉を引き、それに倣ってソウルイーターは「政治的に作られた」アニメだと言った。しかしもちろん、(実写)映画とアニメは異なる特徴を持った表現形式である。たとえば、前者は計算外・編集不可能(or困難)な部分を含んでいるがゆえにある種の「客観性」を帯びるのに対し、後者は全てが編集された、すなわち恣意性の産物だ。より具体的には、風景一つとっても前者は常に予想外の異物(鳥でもなんでもいいが)が飛び込みうる一方、後者は全てを一から作るので、鳥を入れた方が自然or不自然といった恣意性に基づかざるをえないのである(なお、この話が難解に聞こえるなら、実写映画のNGシーンと「OH!スーパーミルクチャン」というアニメの「NGシーン」を比較してみるといい。後者に感じる違和感こそ、まさに私が言いたいことである。まあこれでもわからんと言われたら、「つける薬がないわ~w」としか返す言葉がないがw)。
このような特徴に敏感な作品の一つとして、「戦場でワルツを」という戦争アニメを挙げることができる。日本のアニメに慣れ親しんだ私たち(少なくとも私)は、この作品が本来は実写映画の形式で扱われるべきものだと感じる(その方が生々しさを出せたりもするからだ)。にもかかわらずアニメという形式を採用しているのは、悪夢をそれほど滑稽に感じさせず描くというのもあるが、作品の根幹に「記憶の恣意性」という眼差しがあるからだろう。またアニメではないが、以上のような映画の特徴を熟知するがゆえに、「告発のとき」ではそれが一つの視点にすぎないことを携帯で撮影された断片的画像を効果的に使って暗示しているのだし(これはサスペンス的な狙いもある)、「リダクテッド」はまさにその題名通り、いかに「出来事が作られていく」のかを、断片的な映像の組み合わせによって示している。
少し話がそれたが、以上のようなアニメの特徴を踏まえれば、それが「ノイズの排除」と親和性が高いことも理解されるだろう。そしてそのような形式においてソウルイーターが「ノイズの排除」を構造的に描き出したという連動性について、注意を喚起しておきたいのである。これは、「狂気」や人間の認識の脆弱さを描いた「沙耶の唄」という作品が、没入を容易にする主人公主観形式を採用することで単なるオマージュを超える極めて優れた作品となったことと類似する(まあ計算づくかは微妙という点でも似ているのだがw)。
前回の記事で、ゴダールの「映画を政治的に撮る」とは、表現形式(=見せ方)そのものが伝えたいテーマへの気づきをもらたす作品を作ることだと書いたが、それを元に私がソウルイーターを「政治的に作られた」アニメと表現するのは、以上のようなアニメの特徴をも念頭に置いてのことなのである。
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