沙耶の唄~「属性」と交換可能性~

2013-02-24 18:57:26 | 沙耶の唄

最上もがキタ━━(゜∀゜)━━ヨ!

マーニャたん(;´Д`)ハァハァ

と相変わらず血気盛んな漏れですが、皆様いかがお過ごしでせうか? 思えば今まで「ショートカット」、「褐色」、「金髪」、「つり目」、「メガネ」、「ポニーテール」、「年上」、「男の娘」、「獣姦」と様々な「属性」の話をしてきたわけでありますが、今回はそれを「『純愛』なる印象の必然性」で書いた交換不可能性を理解するための補助線として活用していきたひ。

 

この「属性」に関係することとして、前に「成ル談義」という記事では「楽しめる幅が広ければ広いほど良くて、自分の好みを決めつけるなんてもったいない」という趣旨のことを書いた。これは嗜好などをアイデンティティと切り離すことと合せて、「許容範囲の拡大」という意味においてプラスのものとして表現しているが、一方でそれは対象の「タグ」化であり、それを持ってさえいれば誰でも良い=交換可能な存在となるという側面も持つ。逆に言えば、たとえよいと思えたものでも「タグ」がなくなれば興味が失せるということだ(たとえば前に相武紗季がいいと書いたことがあるが、ショートカットじゃなくなってからは全くアウラを感じなくなった、とかね[まあ美人だとは思うけどw])。俺は「属性」とその幅の広さを食事に喩えたり、オプショナルなものにすぎないと言ったりするけれども、それは今みたいな認識のもと意図的にやっているのである(思うに整形への不快感の一因は、それが顔ですら交換可能であるという固有性の問題を突きつけアイデンティティのゆらぎをもたらすからではないか。それは安部公房の『他人の顔』で描かれるものでもあるが、この作品自体は固有性に最後まで固執する主人公と、その未規定性と擬制を理解して振舞う妻の齟齬を描くことで、より高いレベルまで踏み込んだ内容となっている)。

 

少し別の側面から話すと、「タグ」付きの愛とは、条件付きの愛と表現することもできる。ここで大上段に(笑)ギリシャ語の話を持ち出すと、「愛」という表現はフィロス、エロス、アガペーの三つがある。フィロスは「フィロソフィア=愛智」からもわかるように、知的好奇心のこと。次のエロスは性的な感情(性愛)のみを指すと誤解されることもあるが、正しくは「価値がある・価値を見出す、がゆえの愛」。つまり条件付きの愛である。それに対してアガペーは無条件・無償の愛を指す、というわけ。

 

これらを踏まえて言えば、「属性」は(かなり意識的な)エロスと言うことができるが、では肝心の「沙耶の唄」はどうか?郁紀が事故で特殊な見え方をする「がゆえに」沙耶に惹かれるようになった、という事は誰も否定できないだろう。そして「エンディングの『失敗』」で書いた私の最初の予測通り、郁紀が沙耶の「真の」姿を見て拒絶し、「彼女」もまたそれによって郁紀を殺害する、という展開であれば、それは非常にわかりやすい結末だったと言える。なぜなら、醜い世界に美しいビジュアルである「がゆえに」愛するだとか、孤独な自分を承認してくれる「がゆえに」愛するという感情や行為は、きわめてわかりやすい条件付きの愛だからだ。それゆえに、もし予想と近い終わり方をしていたならば、この作品は(幾分の哀しみはあるにせよ)良作のホラー程度のものとしてそれなりの評価を受けるにとどまっただろう。

 

しかし「エンディングの『失敗』2改」でも書いたようにその予測が見事に裏切られる。沙耶は、再び孤独に戻るにもかかわらず郁紀の願いを受け入れる(郁紀の目覚めたその場に「彼女」がいなかったのは、拒絶されると思っていた=孤独に戻ることを知っていたからだ)。そして元の世界を取り戻した郁紀は、しかしそれにもかかわらず、以前と何ら変わりなく沙耶と接し、また沙耶を想い続けるのである。このようなある種の合理性に基づいた予測を裏切る態度やその不変性が、「二人」の愛を無条件・無償のものと感じさせるのであって、またそれゆえに、受け手は超越的な印象を受けたり、心が揺さぶられたりすることとなる。そしてそのような印象・感情の言語化が「純愛」なる言葉であろう、と考えられるのである(※)

 

以上、自覚的か否かはともかく、「沙耶の唄」はある種の超越的な行為態度を適切に描き出していると言える。ゆえに、たとえ「異物に対する同一化傾向」のような土壌が希薄でも、この作品が受け入れられ、また強く印象にも残る一因となっているのではないか、と考えられる。

 

(※)
もっとも、俺はプレイヤーたちがそういう構造を理解できてるかは怪しんでるから、「沙耶が少年の外見をしていたら、あるいは醜女だったら、プレイヤーは同じような反応をこの話にしただろうか?」と書いたりするわけだけども。またこれに関しては、「灰羽連盟」という作品も非常に参考になるだろう。というのもそこでは「救い」が一つのテーマになっているわけだが、最終話に表れる優しくする「から」愛される=優しくなければ愛されない(のではないか?)という条件付きの承認とそれによる苦悩が描かれているからだ。ここで灰羽連盟の内容に詳しく触れる余裕はないが、とりあえずクラモリ・ラッカ・ネムの三者の行動の違いとその所以を意識されたい。詳しくは「灰羽連盟覚書4」を参照。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自由に選べる | トップ | 心の底からIしてる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

沙耶の唄」カテゴリの最新記事