「純愛」という名の・・・

2011-12-19 18:02:40 | 抽象的話題

一体何をもって「本当に」愛していると考える(定義する)んだろうか?といつも不思議に思う。

 

外見に関して言えば、事故で顔が変わったり整形したりしても感情が変わらないことを純愛とするのか?とするなら例えば「フェイス・オフ」のような状況ではどうか。そこではジョン=トラボルタとニコラス=ケイジの顔が入れ換わるけれども、妻は中身が入れ換わろうと元夫の顔をした人間を愛すのが「純愛」なのか?それが違うのだとしたら、先に述べた整形や事故の話はどうなるのか?

 

あるいは人格が重要と言うのなら、年を重ねて人格が変化した場合はどうか?仕事に失敗して人格が変わったら?・・・先に同じく今の問いが単純だとするなら、脳に関する器質性の病気で性格が豹変した人間や、薬物で人格を改造された人間についても同じ感情を抱くのを「純愛」とするのか?

 

あるいは「その人」であること(認証)が大事であるのなら、(小さい頃から知り合いだったとして)子供の頃に特別な感情を抱いていなかったのはどういうことになるのか?あるいはまた、恋人の顔と全く同じに整形した他人がいて、それを恋人だと思って愛し続けたとしよう。それは「純愛」になるのだろうか?なるとしたら何に対する「純愛」なのだろうか?

 

私がこのように言うのは、明確な答えを要求しているからではないし、嘲笑したいからでもない(「交換可能性と『恋愛ゲーム』」の記事も同様)。「純愛」という観念には不変性や真理(一般性)に関するナイーブな信仰が多分に含まれているのではないか?という問いかけなのだ(もちろん疑念は交換可能性と不毛な関係性にも繋がるが、それはあくまでベタな信仰から解放された先にある問題だろう)。あるいは「時間」(邦題「絶対の愛」)という映画における恋人二人の滑稽な(≒距離のある)描かれ方は参考になるかもしれないが・・・

 

はてさてあなたの答えは如何?

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