「沙耶の唄」から「まどか☆マギガ」へ

2012-08-25 18:33:01 | レビュー系

前回、「沙耶の唄~埋没、覚醒、気付き~」を書いた。この作品に描かれているものが「純愛」だとする評価についてはまだ記事を掲載していないので、厳密には「要約版」とは呼べないが、実質沙耶の唄に関するこれまでの記事を集大成したものとなっている。ところで、その記事を見て「なぜ十年近くも前の作品を今さら取り上げるのか」「そんなに前の話だから今さらそのように作者を批判するのはどうか」と感じた人がいるかもしれない。作品の古さが問題になるかどうかはともかく、作者への批判に片手落ちな部分があるのは確かだ。

 

というのは、前掲の記事で述べた作者(≠作品)の問題点や限界が、実は「魔法少女まどか☆マギガ」(以下「まどか」と表記)という作品において克服されており、またそういう視点があるとその価値がよりよく理解されると思うからだ。一部はすでに「異物の描き方」で触れているが、いくつか例を挙げてみよう。

 

○「泣きゲーへのアイロニー?

沙耶の唄において、沙耶の少女のビジュアルや孤独感の描写は、「彼女」の側にプレイヤーを惹きつける「演出」として機能しており(=庇護の感情を作り出す)、またそういった要素を組み込めば、いとも簡単に泣きゲー的なコミットメントを作り出すことができる、ということを示している(「埋没、覚醒、気付き」でも言ったように、演出一つで「感情移入」や「共感」させ、操ることが可能)。そのような意味において、私は沙耶の描き方を「泣きゲー」へのアイロニーではないか(少なくともそうなりえている)と書いた。このことは、沙耶のビジュアルについて考えてみるとわかりやすい。たとえば仮に、沙耶が少年の外見をしていたらどうか?大人の女性であったら?醜女であったら?壮年の男性なら?それでも同じように我々は沙耶・そしてこの作品に反応したであろうか?おそらく答えは否だろう(設定上の制約はあるにせよ、沙耶以外の女性が大学生以上の成熟した人たちであることも想起したい)。ちなみにこれは、子供をフックとして活用した惹きつけ、より大きくはプロパガンダの作り方といったものに一般化することもできる(韓国映画の「チェイサー」などもそういった例として興味深い)。とはいえ、設定資料集を見る限り、作者がこの点についてさほど意識的だったようには思われないのである(もっとも、今のような計算をしていたとして、ダイレクトに発言していたら相当な反感を持たるので避けた、という可能性もゼロではないが)。

しかしその点、「まどか」は大きく異なっている。それは露骨なほど萌えを逆手に取った演出が随所に見られるからで、たとえば、この作品を「萌え」アニメとは明らかに異質なものと強く印象づけたと思われるマミの死に方、あるいはかわいらしい声・外見で「萌え」るキュウべえが、魔法少女たちの苦悩を全く理解しようとしない「酷薄」な存在であることを徹底的して示す描き方(ex.クローズアップされるガラス玉のような目)、といった例を挙げるだけで十分だろう(もっとも、エヴァンゲリオン劇場版のネルフ本部掃討のごとき、ドラマ化されない酷薄な死一つ描かない[描けない]で、恥ずかしげもなく「正義」や「悪」、「友情」などとのたまっている諸作品を嘲笑している私としては、むしろ「まどか」の描写こそが当たり前のものと思えるのだが。「デスノート~乾いた死~」や「キム・ギドク」も参照)。

 

○「フラグメント109:『沙耶の唄』に見る排除、包摂、没入

沙耶の唄においては、郁紀と青海の必然的かつ徹底的断絶、異常な状況を経験したことで逸脱してしまった涼子とその言動に対する耕司の無理解を初めとして、異なる文脈を持つ者たちのディスコミュニケーションがいくつか描かれている(そして双方に構造的必然性がある)。このことは、例えば私たちが環境保全を訴えながら、決してツェツェバエやゴキブリを保護しようなどとは思わないこと=恣意性の問題などとも繋がってくるであろう(ただし、その恣意性から免れうるとするのは無謬な客観を措定するのと同じ無謀さ・傲慢さでもあるのだが→カール・ポパー)。

そして「まどか」においては、そのようなディスコミュニケーションとその構造がより前面化・体系化して描かれているように思える。たとえば、「魔法少女が魔女になる」というのは「善ー悪」の交換可能性を示している。しかしそれだけでなく、その構造を操るキュウべえ(とその背後のシステム)の存在によって、「悪」は作り出され、その撃滅のため動員された後やがて自らが「悪」として排除されていく・・・といったマッチポンプ構造を見て取ることも容易だ。このことは、アメリカを中心とする「悪の枢軸」との戦いとそれへの動員を連想せしめるのはもちろんのこと、キュウべえの背景(星の様子など)をあえて描かないことで、非人間的システムと搾取、及びそれによる使い捨て・不全感として、秋葉原事件であるとか少し前に掲載した「太陽を盗んだ男」などをも想起させるものであり、その意味で幅広い射程を持つ極めて優れた設定・描写であると言うことができるのではないだろうか。ちなみに、キュウべえの背景を描かないのはそれへの「感情移入」のフックをあえて用意しないということを意味しており、この点沙耶への同情的視点に多くのプレイヤーが傾いたことで作者の想定を裏切ったことの経験を活かしている、とも考えられる(もちろんそこには、時間的制約という問題もあることを忘れてはならないが)。またキュウべえと(期待するような)会話が成立しないことを、「萌え」は単にかわいらしい外見をもとに内面もそうだと勝手に忖度しているだけであって、たとえばイルカとゴキブリの間に価値的な差異を見出すのは端的に人間の側の傲慢でしかないのだ、という風な恣意性・独善性の問題に置き換えることも可能だろう(動物の行為・態度に人間的価値観を当てはめて解釈・評価しようとするのは、ありがちな錯誤だ)。

 

以上のような観点から、「沙耶の唄」における問題点(表現の意図と受け手の反応の乖離)を作者は正しく理解し、「まどか」では適切に作品の表現に生かした、と言うことができる。またそのような意味で、傑作「まどか」の真価を正しく理解する上でも、「沙耶の唄」の受容環境を含めた特徴を論じるのは、今日的にも十分意味のあることだと思うのである。


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