前回の記事において、私は人の行動や評価が文脈によって変化するのは当然であるがゆえに、郁紀(主人公)の行動を全く不自然だと思わないと述べた(=交換可能性の認識)。そしてこのような評価は、郁紀が元の知覚を取り戻すエンディング(「エンド1」)が惨劇に終わるだろうという予測と完全に連動するものであったと言える。
周知のように、エンディングの内容はこの予測を完全に裏切るもので、以降作品の内容は私の予想を大きく超えていくことになる。その結果として、耕司が生き残るエンディングが(演出的なものはあるにせよ)どうしてもバッドエンディングにしか見えず、ちょっとした視点(見せ方)の差異で感情や評価などどうとでも操作できてしまうものにすぎないのだと、私の交換可能性の観念がより具体化・徹底化にされたのであった(cf.esやTHE WAVE、あるいはカール=シュミット)。
このような観点から沙耶の唄を「恋愛モノ」とする評価は首肯できる。なぜなら沙耶の側に立つことが容易な内容になっているため、たとえば郁紀と沙耶の行為後の会話を「ピロートーク」と解することに何の障害もないからだ。もちろん、それは(1)「恋愛」のあるべき振舞い方が沙耶にインプットされている、(2)郁紀の知覚障害、といった事情で底上げされて初めて成立しているものにすぎない(おそらく、沙耶のビジュアルが少女であることも大きく影響していると予想される)。しかし逆に言えば、底上げさえされれば容易に越境できてしまうのでしかない(プレイヤーの視点で見れば、主人公主観を絡めた工夫で容易に影響されてしまう、ということ)。つまりは我々が思っている恋愛とは「恋愛ゲーム」であり、「真理」などというものもa point of viewにすぎず、ゆえに作者がインタビューで答えているような宗教戦争や狂信、あるいは「理性も狂気」といった認識がまさに我々にも降りかかりうるものだとする認識に繋がるのである(たとえば「沙耶の唄」を沙耶の側に関するプロパガンダ作品と見れば、彼らの行為を「恋愛」として同情的に見ることは見事に意図に引っかかっていることになる、という具合)。沙耶の唄でホラーと言いうるものがあるとすれば、視覚的なものというよりはむしろ、そういった交換(入れ替え)可能性を体感させてくれることにこそあると私は思うのである。
ところで、沙耶の唄で描かれているもの「純愛」だと評価する人が一定数存在するようである。たとえばYou Tubeの「ガラスのくつ」からいくつかコメントを引用すると、
(例1)
純愛の形を示してくれた素晴らしい作品
これを知ってからは他の作品がひどく薄っぺらく感じられる。
(例2)
これからも多くの作品を見ると思うが、愛を描く作品でこれを超える作品はないと思う。
狂っていると言われる点そのものが純愛。二人の間にあるのも純愛。
本当に良い作品だった。
(例3)
沙耶の一途に愛した所、同様に郁紀も沙耶を愛した事、「これが本当の愛なんだ。」そう思わせる作品でした。沙耶が自分の身すら犠牲にして郁紀を救う。それは本当にこの世界の中で一人、郁紀だけを愛していたからなんだと思います。純愛とはまさにこれの事だと思いました。沙耶、感動をありがとう。奇跡をありがとう。私は沙耶の幸せを祈ってます。
などがある。これらを元に、次回は沙耶の唄を交換可能性の話として評価する視点と「純愛」の表現として評価する視点の双方を扱っていきたい。そしてその議論の中で、なぜ沙耶の唄が(ディープなホラー好きの自己満足的ガラクタではなく)拓かれた作品たりえているのかも自ずと明らかになるであろう。
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