ソウルイーターとエヴァンゲリオン

2012-01-27 18:40:26 | レビュー系

以前「『父』と『母』、あるいは『勇気』について」という記事の中で、特に父と母の問題を中心に、ソウルイーターとエヴァンゲリオンの話を取り上げた。その内容を多少乱暴に要約すれば、共に「他者といかに向き合うか」を問題にしているということであった。しかし、同じテーマを扱いながら、ソウルイーターとエヴァンゲリオンの表現方法は全く異なっている。今回は、それを比較対象する中でソウルイーターの表現の特徴(戦略)を明らかにしていきたいと思う。

 

まずエヴァンゲリオンについて。
しばしば言われているように、この作品は過剰なまでの引用に満ち溢れている。過去のアニメの要素もさることながら、マルドゥック、カバラの樹、ロンギヌスの槍など様々な宗教絡みのガジェットや心理学的要素を盛り込んでおり、しかも様々な謎をばらまくことで視聴者の解釈の欲望を強く刺激した・・・そんな作品だった。このように、様々なタームを「ネタ」として扱っていること、より正確には奥行がありそうに見える諸々の要素がことごとく「ネタ」でしかないという内容はオウム的なものを先取りしていたと言われている。また例えば「父」と「母」に関して言うと、シンジにとっては威圧的な父と「消えた」母=エヴァ初号機の問題があり、アスカは自殺した母の承認を求め、ミサトは自分を庇って死んだ父へのコンプレックスがつきまとい、リツコは母へのコンプレックスからゲンドウと関係を持ち、挙句カスパーに裏切られる(?)に到っている(ネタバレになり過ぎない程度にぼかしてある)。このように、エヴァンゲリオンでは親へのコンプレックスが多くのキャラに影を落としているが、その意味でTV版の最後の言葉が「父にありがとう、母にさようなら」というのは非常に象徴的であった(一度LCL=羊水に取り込まれた上でそれを拒絶し、あえて自分を拒絶する他者と向き合う劇場版も同様)。ここでは、他者との向き合い方の問題や父と母(エヴァの場合「」は不要だろう)の問題が非常にベタに描かれている。

 

翻ってソウルイーターはどうか?
前掲の「『父』と『母』~」、そして「『勇気』とその内実」でも言及したように、宗教的・心理学的な(奥行・背景があると思わせる)タームの使用に対して非常に禁欲的だ。むしろ、エクスカリバーの扱い方に見られるように、従来の神聖なイメージにことごとく反する存在(高慢さ、独善的etc)として描いてさえいる(まあそれを言ったら「死神」が正義の味方的ポジションにいること自体がそうなのだが)。このように、「ネタ」の一つとして陳列される存在(のイメージ)を初めから露骨に解体しているのである。また「父」と「母」についても死神側=「父」、アラクネ・メデューサ側=「母」と見なせる構成になっているのだが、マカの父親はシンジの父(ゲンドウ)のような子にとっての絶対的存在ではなく、むしろその母が姿を見せず「勇気」という規範を示す存在(一般的「父」のイメージ)として機能している。要は、エヴァンゲリオンのようにベタな性格・役割付けをしておらず、むしろそう読もうとした時に引っかかる仕組みになっているのである。

 

それを踏まえた上で、ソウルイーターのように宗教・心理学的(より広く言えば「ネタ」的)言葉を使用しない効果・狙いは何かを考えてみよう。大きく言えば二つあるように思われる。まず一つは、難解な言葉などが一切出てこないという意味で、エンターテイメントとしての質を担保する効果があるだろう(「殺人の追憶」や「鬼が来た!」)。

 

もう一つは、カテゴライズとそれによる思考停止の抑止だ。9.11のテロを知っている私たちは、イスラーム対キリスト教といった単純な二項対立、あるいは「イスラーム原理主義」といった言葉・イメージがどのように独り歩きし、また利用されるかを見てきた。また例えばナチス・ドイツ(ヒトラー)の蛮行がどのようにして無害化(=自己との無関連化)されるか、といった類の話を私は何度となくしてきたし(それを私は「風景の狂気」と呼んだ)、またそれゆえに境界線の曖昧さや狂気に到る構造をこそ知るべきだと繰り返し書いてもきた。まあそこまで執拗に考えなくとも、歴史をつぶさに見れば「国民国家」を始めとして様々な事例に行き当たるだろう(狭い領域の話では「鬱アニメ」の記事もそういう意識で書いている)。ちなみに思考停止のもう一つのあり方は、深読みゲームである。それはエヴァンゲリオンに関する数多くの謎本の存在を指摘すればそれで事足りるが、たとえば「クレッチマー派の分類でこのキャラクターの性格は・・・」などと分析してみるような行為を指す(このような行為への違和感はすでに「嘲笑の淵源」で書いた通り。ちなみに、灰羽連盟に関する私の昔の考察はそういう傾向があり、それを再考では意識的に捨て去ったわけだ)。これは一見すると思考しているように見えるが、実はだらだらと背景を掘り下げているだけのことで、結局は言葉によるカテゴライズで思考停止しているのと何ら変わりはないのである(言葉に対してベタに没入していると言ってもいい)。

 

ではそれらの反応はソウルイーターの製作者が求めるような反応だろうか?明確に違うだろう。そう考える理由は、マカの母から示される「勇気」の中身や狂気と向き合おうとするソウル、そして異物(外界)を病的に恐れるアシュラの振る舞い(への否定的描写)からは、「思考停止をせず、異物・他者と向き合え」というメッセージが読み取れるからに他ならない。さて、視聴者に言葉を届かせて考えさせ、あわよくば気づきをもたらしたいと思うのなら、エヴァンゲリオンの例からも分かる通り、下手に言葉を使うと逆効果である。それは深読みゲームによる思考停止、もしくは新たな二項対立(「父―母」であれ「敵―味方」であれ)を生み出すだけだからだ(その意味で、この作品のテーマを「排除と包摂」と表現することにも同様の危険がつきまとう)。つまりそれは、たとえば「以心伝心」のような情緒的問題ではないし、ましてや美学的な問題でもなく、すぐれて機能主義的・戦略的な問題なのである(真剣に言葉を尽くして語るほど、よりいっそう相手には届きやすくなすはずだ、というのは「いい人」がしばしば陥りがちな錯誤である。「共感」の危険性、「明日、君がいない」の演出なども参照)。

 

「『政治的に作られた』アニメ」や「all redacted」でも触れたことだが、以上のような陥穽を熟知しているがゆえに、ソウルイーターは「母性」などのタームを使わずしかも役割付を入れ子構造にし、かつ徹底的なエンターテイメントの展開をもってかえってノイズの排除の構造に気づかせるという演出方法を採用しているのである。


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