沙耶の唄~「純愛」なる印象の必然性~

2013-02-21 18:23:51 | 沙耶の唄

 

[はじめに]

「沙耶の唄」については、これまで膨大な分量の記事を書いてきた。その要約は「埋没・覚醒・気付き」を読んでもらうとして、今回は作者の意図と受け手の印象の齟齬の最も端的な例として、「沙耶の唄」=「純愛を描いた作品」という視点について述べたい。

 

[「純愛」という印象の要因]

作者虚淵玄は、この作品が多くの人に「恋愛モノ」として受け止められたことについて、設定資料集のインタビューの中で驚きを表明している。しかしYou Tubeなどのコメントをつぶさに見ると、それどころかそこで描かれているものを「純愛」とさえ受け取っている人が少なくないことに気づく。私はこの見方を極めて必然的なものだと考えるが、それは主に以下の三つの理由による。

(a)鈴見に暴行された件→「disillusionの内包」も参照
自分が人間にとって受け入れやすい少女のビジュアルで見られるようになったとしても、それは誰もが郁紀のように接してくれることを意味しない。このことから、沙耶にとっての郁紀の交換不可能性が受け手に印象づけられる。

(b)自己犠牲の精神
プレイヤーの選択にもよるが、沙耶は、「元の世界を取り戻したい」という郁紀の望みを叶える。この後で沙耶が彼の前から姿を消すことを考えれば、彼女は自分が拒絶されると思いつつも、郁紀のためにあえてその行為をなしたことがわかる。沙耶が郁紀と暮らし始める前、これまで人から拒絶されてきた沙耶が郁紀からもそうされるのではないか(=ぬか喜びではないか)と不安な面持ちで座っている場面が描かれるが、そういった孤独と承認の欲求を念頭に置けば、彼女の行為がどれほどの決意の元になされたものか、想像に余りある。少なくともそこに、自分の望みよりも愛する人の願いを叶えんとする自己犠牲の精神を受け手が見出すことは容易だろう。より詳しく言えば、そこから「自分を愛してくれる人だから、その人の願いを叶えてあげたい」という条件付きの行為ではなく、「たとえそのことで自分を愛してくれなくなったとしても、自分が愛する人の願いを叶えたい」というエートスが強く受け手に印象づけられる、ということである。

(c)エンディング1の内容→詳細は「エンディングの『失敗』」および「エンディングの『失敗』2」を参照
元の世界を取り戻した郁紀は、精神病患者として病院に収容されることになる。そこで彼は「父」を探して回る沙耶と再会することになるのだが、沙耶は直接姿を見せるどころか、声を聞かれることも拒み、携帯電話のメモ機能を通じてやり取りをする。ここでの彼女の振る舞いや境遇は(b)のイメージをさらに強化することになろうが、郁紀の沙耶に対する態度もまた、脳裏に焼き付けられるであろう。彼の態度は、驚くほど以前と変わらない。つまり沙耶を愛し続けているのはもちろんのこと、それに特別な気負いさえ見られないのだ。そのことは、声を聞かれたくないという沙耶に対し、「僕はつい可笑しくてクスリと笑った。沙耶でも、こんな風に恥ずかしがることがあるなんて」と思い、また「だが当の沙耶が嫌がるのなら仕方ない。女の子のそういう心理は、僕だって解らないこともない。ちゃんと酌んであげるべきだろう」といささかこちらが拍子抜けするほど「軽い」態度でいることに象徴される。もう少し詳しく説明しよう。「醜い世界に可愛らしい少女のビジュアルをもった存在だから、愛したのだ」というのは、わかりやすい条件付きの(またそれゆえに交換可能な)愛だ。「醜くなろうが、それでも愛す」という態度は容易ならざるものだが、それでも理解はしやすい(「情が湧く」といった言葉もあることだし)。しかし郁紀の態度は、むしろ「それがどうしたの?」「一体何の問題があるの?」とでもいわんばかりなのである(=逆説や葛藤すら感じられない)。それゆえそこには、(良しにつけ悪しきにつけ)超越的なものを感じ取らずにはいられないのである。なるほど元の世界に結局馴染めなかった、という要因はあるだろう。また冷静に見れば、そこで沙耶の「内面」も「真の」姿も決して描かれてはいないと指摘もできるだろう。しかしそれ以上に、郁紀の沙耶に対する感情の不変性が強く印象づけられる場面であり、それが「純愛」の印象と結びついていったのではないかと予測される。

 

[おわりに]

もちろん、この他にも様々な要因はあるだろう。郁紀について言えば、沙耶の「父」を献身的に探す行為だとか、沙耶に暴行した鈴見を激昂して殺す場面を指摘できる(鈴見にもともと悪意があったわけではなく、単なるとばっちりであることも念のため指摘しておく)。また沙耶について言えば、自分を犠牲にして郁紀が安らかに暮らせるよう世界を生まれ変わらせる、といった行為を取り上げることができる。しかしながら、二つの世界が選択可能となる部分こそ、郁紀ー沙耶の感情の不変性が最も強く刻印された場面として「純愛」なる印象を確固たるものとしたのではないか、と推測されるのである。

 

さて次回は、この話の補助線として「属性」と交換可能性について書くことにしたい。


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