オレンジ色の紫陽花

携帯から軽快に綴るおいらの日々。
…だったのだが、ツイッターのまとめブログに変更。極稀にこっち単独の記事もある、かも。

「窪塚洋介ネイティブアメリカン紀行」

2005年09月15日 01時15分32秒 | テレビがお守り
2時間の特別番組でした。
しっかりがっつり見てたわけではなくて、特に前半はトリビア重視でちょろちょろ見て、後半は、ほぼ見た、って感じかな。
だってほら、やっぱ窪塚くんだし!とにかく彼を見たかったしな。
あとはグランドキャニオンだのなんとかバレーだの(なんだっけ、モニュメントバレー?そんなのあったっけ?シリコンバレーじゃないことだけは確かだ)、そういう風景を見たかったし。

で、ちょろっと思い出したんだけど、ずっと前にスマスマの特別編で、キムタクがインディアンの集落に行くようなやつがあったよねえ?なんか、ちょっとそれとダブらせて見てた。同じようなものに惹かれるのかなあ、とか思ったりね。いや厳密には全然違うんだろうけど、なんか、似たような風景を見たなあ、と思った。だからって窪塚くんとキムタクの感性が似てるってことには全然ならないんですけれどもさ。

それにしても、窪塚くん、ほっそいよねー!ひょろひょろしてたな。色白なこともあって、そこはかとなく病弱なイメージが…もうちょっと分厚くてもいいんじゃないのか?と思ってみたり。Tシャツだと特に薄い感じとか目立つなあ。ごつくなくてもいいから、もうちょっと、うー、厚みがほしいですよ。(自分の下腹部と一緒にするなってか?…ほっとけ!)

「一人で生きてる、んじゃなくて、生かされてるって感じがする」

てなことを窪塚くんが番組の最後の方で言ってましたが、こういう観点を持ってると、ある意味ラクに生きられると思う。ラクに、というのも語弊があるけど。
これはよくうちのハハが言ってたことなんですが、自分が今こうして生きてるのは、自分で生きてるんやなくて、何かに生かされてるんや、と思ったら、どんなにしんどくてもめげへん、と。どんなにしんどい思いをしてて、もうアカン、と思っても、それは絶対にアカンようにはならなくて、最後の最後にはどこかから助けがくる、と。まあね、彼女は敬虔なクリスチャンですから、彼女の言うところの「生かされてる何か」というのは神様なんですね。どんなにしんどくてもそれは「神の与え給うた試練」であるわけで、即ち最悪の事態には絶対ならないんだ、と。最後にはどうにかなるもんだ、と。ある意味達観してる(だからこそ洗礼を受けるに至ったんだろう)というか、投げちゃってる(というと聞こえが悪いが、つまりは委ねている)というか。
おいらも、いや、おいらはクリスチャンではないし、仏教徒でもイスラム教徒でもヒンズー教徒でもない。けれども、何かに生かされてる、という観点は、ハハのお陰で身の内にちゃんとある。ありがたい。で、おいらにとっての「何か」って?と聞かれると、それがまた抽象的で、具体的にだれそれの神様、なんていう対象がないんですけれども、でもやっぱり、おいらがこの世に生まれてきて、こうしておいらとして生きているのは、様々に複雑な偶然が絶妙に連携しあって、の結果なんですよ。と思うわけですよ。
窪塚くんが、生かされてる何か、を「何」だと思ったか、は分かりませんが、どうかその生を満喫してほしいなと思うわけです。ええ、なんだかえらそうですけれどもさ。
おいらは、やはり、窪塚洋介って人が好きなんです。好きな人ってぇのは、いつまででも見ていたいものなんです。

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