拉致被害者の家族との面会を終えた金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚。帰国を前にNHKのインタビューに応じました。
拉致被害者・横田めぐみさんと北朝鮮で会ったときの詳しい様子、そして、田口八重子さんが「平壌で生きている」という情報を聞いたことを明らかにしました。
帰国前の7月23日午前、1時間にわたってNHKのインタビューに応じた金元死刑囚は、来日したときの気持ちをこう語りました。
「ここが田口さんやめぐみさんが“帰りたい”と夢にまで見ているところなんだと。私が2人の代わりに先に日本に来たと思うと、胸がいっぱいで涙が出ました」
7月21日、横田めぐみさんの家族と長野県軽井沢町の別荘で初めて面会しました。横田早紀江さんに握手を求められた金元死刑囚は、感極まって涙ぐみました。
「めぐみさんの両親に会えて感激しました。特に、お母さん(早紀江さん)を見たときは自分の母親を見ているようでした。北朝鮮に残した母親を思い出して、(早紀江さんと)抱き合って涙を流しました」
1984年6月頃、平壌の招待所で1人で暮らしていためぐみさんのもとを金淑姫(キム・スクヒ)という仲間の工作員とともに訪ねたといいます。めぐみさんは当時19歳、一緒にいたのは数十分だったということです。
「(めぐみさんは)年齢の割に若く見え、色白でかわいかったです。おとなしい感じでした。初めて話したのであまり話が進まず、雰囲気がぎこちなかったので“歌でも歌おう”ということになったのですが、めぐみさんはなかなか自分から歌おうとしないので仲間の工作員と一緒に『君が代』を歌いました。声もきれいだったし、童謡によく合う声をしていました」
また、田口八重子さんの消息については「韓国の拉北者家族会の情報とは別の話だ」として、次のように述べました。
「私が韓国に来てからも、“田口さんが平壌で生きている”という話を聞きました。正確にどこにいるか言いづらいのですが、“健康に暮らしているはずだから、希望を失わないで”と(家族に)伝えました」
滞在中、八重子さんの家族と面会した際には長男の飯塚耕一郎さんと料理をしたりしてひと時を過ごしました。
「一緒に食事をしながら田口さんについて話ました。本当の家族のように感じました。“田口さんが帰ったら、もっとおいしい料理を作ってくれますよ”と話しました」
一方で、今回の来日では大韓航空機(KAL機)爆破事件の実行犯を政府が特別に入国させたことに批判も出ました。金元死刑囚自身は、どう受け止めているのでしょうか?
「私が死んでいたら、大韓航空機爆破事件や日本人拉致事件は明るみに出なかったでしょう。大韓航空機事件や拉致事件を証言するために生かされたのではないでしょうか。(特別に入国の)許可が出て、日本に来て被害者の家族に会って、話をして、慰めることが出来ました。拉致被害者が帰国するときまで何でも手助けしたい」
※「拉致被害者たちは必ず飛行機に乗って帰国出来ると信じています。帰国するまで必要なことがあれば手伝いたい」
こう言い残して、金元死刑囚は日本を後にした。
拉致被害者・横田めぐみさんと北朝鮮で会ったときの詳しい様子、そして、田口八重子さんが「平壌で生きている」という情報を聞いたことを明らかにしました。
帰国前の7月23日午前、1時間にわたってNHKのインタビューに応じた金元死刑囚は、来日したときの気持ちをこう語りました。
「ここが田口さんやめぐみさんが“帰りたい”と夢にまで見ているところなんだと。私が2人の代わりに先に日本に来たと思うと、胸がいっぱいで涙が出ました」
7月21日、横田めぐみさんの家族と長野県軽井沢町の別荘で初めて面会しました。横田早紀江さんに握手を求められた金元死刑囚は、感極まって涙ぐみました。
「めぐみさんの両親に会えて感激しました。特に、お母さん(早紀江さん)を見たときは自分の母親を見ているようでした。北朝鮮に残した母親を思い出して、(早紀江さんと)抱き合って涙を流しました」
1984年6月頃、平壌の招待所で1人で暮らしていためぐみさんのもとを金淑姫(キム・スクヒ)という仲間の工作員とともに訪ねたといいます。めぐみさんは当時19歳、一緒にいたのは数十分だったということです。
「(めぐみさんは)年齢の割に若く見え、色白でかわいかったです。おとなしい感じでした。初めて話したのであまり話が進まず、雰囲気がぎこちなかったので“歌でも歌おう”ということになったのですが、めぐみさんはなかなか自分から歌おうとしないので仲間の工作員と一緒に『君が代』を歌いました。声もきれいだったし、童謡によく合う声をしていました」
また、田口八重子さんの消息については「韓国の拉北者家族会の情報とは別の話だ」として、次のように述べました。
「私が韓国に来てからも、“田口さんが平壌で生きている”という話を聞きました。正確にどこにいるか言いづらいのですが、“健康に暮らしているはずだから、希望を失わないで”と(家族に)伝えました」
滞在中、八重子さんの家族と面会した際には長男の飯塚耕一郎さんと料理をしたりしてひと時を過ごしました。
「一緒に食事をしながら田口さんについて話ました。本当の家族のように感じました。“田口さんが帰ったら、もっとおいしい料理を作ってくれますよ”と話しました」
一方で、今回の来日では大韓航空機(KAL機)爆破事件の実行犯を政府が特別に入国させたことに批判も出ました。金元死刑囚自身は、どう受け止めているのでしょうか?
「私が死んでいたら、大韓航空機爆破事件や日本人拉致事件は明るみに出なかったでしょう。大韓航空機事件や拉致事件を証言するために生かされたのではないでしょうか。(特別に入国の)許可が出て、日本に来て被害者の家族に会って、話をして、慰めることが出来ました。拉致被害者が帰国するときまで何でも手助けしたい」
※「拉致被害者たちは必ず飛行機に乗って帰国出来ると信じています。帰国するまで必要なことがあれば手伝いたい」
こう言い残して、金元死刑囚は日本を後にした。