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【みんな生きている】金賢姫インタビュー編(1)

2011-08-23 06:55:52 | 日記
《金賢姫元死刑囚と『朝鮮日報』紙が1987年11月29日をインタビューで振り返る》

1987年11月に起きた大韓航空機(KAL機)爆破事件の実行犯・金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚は8月15日、「廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代、大韓航空機爆破事件を“国家安全企画部(安企部。現在の国家情報院)による謀略事件”に仕立て上げようとするテレビ番組に出演しないという理由から、私の居住治の情報が漏らされた。私を殺害するために北朝鮮の暗殺団を呼ぶようなものだった」と語った。
金賢姫氏は『朝鮮日報』紙のインタビューに応じ、

「一般市民や労働者の政府と言いながら、(大韓航空機爆破事件での)中東出稼ぎ労働者の犠牲を政治的に利用した。私が頑張ると、国家機関から“外国に移住しろ”“他の地域に移れ”と脅迫された」

と語った。さらに金賢姫氏は2003年11月の深夜にMBCのテレビ番組『PD手帳』のチームが自宅を訪れたあと、子供をおぶって家を抜け出し、現在も身を隠していると付け加えた。
金賢姫は

「大きな罪を犯した私を生かしておいたのは、大韓航空機爆破事件の唯一の“証人”だったから。私は一人であっても、真実のために戦うしかなかった」

と語った。
また、金賢姫氏はその当時世論づくりの先頭に立っていたカトリック正義具現司祭団に言及し

「北朝鮮の政権は神も否定する。そんな政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けているのだから、司祭の服を着ていても本当に神を信じているのかどうかわからない」

と批判した。
その一方で、金賢姫氏は

「大韓航空機爆破事件直後にバーレーンの空港で正体がばれ、たばこに隠していた毒薬のアンプルを噛んで自殺しようとしたが死にきれず苦しんだ。韓国に送還されたら秘密を洗いざらい喋らされて、八つ裂きにされて死ぬのだろうと思った」

と語った。

【大韓航空機爆破事件】
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルに向かっていた大韓航空858便がミャンマー近海の上空で爆破された事件。乗客・乗員115人全員が死亡したが、そのほとんどは中東で働く韓国の出稼ぎ労働者だった。
1988年のソウル五輪開催を妨害しようとした北朝鮮のテロと判明したが、当時の大統領選挙日と重なっていたために様々な疑惑が持ち上がっていた。



大韓航空機爆破事件の実行犯・金賢姫元死刑囚(49歳)の顔は、私たちの記憶の中にあるものではなかった。街中で会ってもわからないだろう。24年の歳月が流れていた。
1987年11月29日、バグダッドを離陸しソウルへ向かっていた大韓航空858便が空中で爆発した。場所はミャンマー近海上空。乗客・乗員115人全員が命を落とした。乗客の多くは熱砂の中東で働いて3年ぶりに韓国へ帰国する出稼ぎ労働者だった。機体は木っ端微塵、犠牲者の遺体も見つからなかった。
美貌の爆破犯は今や中年となり、廬武鉉政権下で直面したことを語った。
声を上擦らせ、時には泣き出しそうになった。興奮すればするほど北朝鮮訛りが出た。
「金大中(キム・デジュン)政権時代にも同じようなことはあったが、廬武鉉政権になるや、私を“偽者”にしようとあらゆる疑惑を膨れ上がらせた。大韓航空機爆破事件を覆すため、政府レベルで私を圧迫してきた。当時、私は外部での活動を一切しておらず、娘がよちよち歩きを始めたばかりだった」



『朝鮮日報』紙(以下、Q):世間の人々は、あなたが国家機関の保護を受けて余裕のある生活をしていると思っていたが?
金賢姫氏(以下、A):「左派政権が作った国家情報院(国情院。金大中政権以降)の保護を受けたことはない。むしろ、寒さと恐怖に震えながら逃げて来た私に“テレビ番組に出演するよう”指示した。“指揮部ですでに決定した事項だ”と」
Q:人々はあなたのことが気になっていた。テレビ番組に出演することは出来ないのか?
A:「私が北朝鮮の工作員ではなく、国家安全企画部の工作員だと“告白しろ”というものだった。“私は偽者だ”と言えというのだ。北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした大韓航空機爆破事件を韓国のせいにしようとするものだった。標的を逆にしようとしたのだ。この卑劣な工作の旗手のようなテレビ番組にどうして出ることが出来るのか。国情院がMBCの『PD手帳』に出るよう強要した」
Q:当時の世論の雰囲気から、国情院の側に苦悩があったようだが?
A:「私が拒否すると、国情院に夫を呼んだ。“あくまでそうするのなら、テレビ出演はやめて国情院で神父様と同席する中で説明会を開くことにしよう”と提案した。夫は仕方なく受け入れた。ちょうどそのとき、MBCの『PD手帳』チームが私のもとへ押しかけた。私は赤ちゃんを背負って夜逃げしなければならなかった」

【神父様】
「大韓航空機爆破事件は安企部の謀略事件なので再捜査せよ」という署名運動をしていた正義具現司祭団を指す。



Q:韓国社会でメディアの取材は自由だ。あなたはニュースメーカーだったので、積極的な取材と無関係ではいられないのではないか?
A:「私の最高の保安事項は居住地の情報漏洩だ。故ファン・ジャンヨプ先生に対しても北朝鮮はテロを実行しようと暗殺団を送り、李韓永(イ・ハニョン)氏も居住地の情報が漏れて殺害された。そのため、かなり前から警察が私を保護していた。ところが自分たちの思い通りに動かないと私の居住地情報を漏らしてしまった」
Q:メディアが独自にあなたを探し出して取材した可能性もあるのではないか?
A:「国情院が情報を流した事実を、私は知っている。これは保護すべき事件の“証人”を抹殺しようとするものだ。寒い冬の日、赤ちゃんを背負って行く場所など無い。安い一間の部屋で、これまで9年間暮らしている」
Q:大韓航空機爆破事件の遺族の一部も、あなたを「偽者」だと主張しているが?
A:「庶民と労働者の政府だと言いながら、中東に出稼ぎに行った労働者の犠牲やその遺族の悲しみを政治的目的で悪用した。正義具現司祭団が先頭に立ってそんな世論づくりをした。私は理解出来ない。北朝鮮では聖書が見つかっただけでも反逆罪に問われ、家族が抹殺される。神を否定する、そんな政権を擁護して金正日(キム・ジョンイル)政権が起こした事件を“韓国がやった”と擦り付けるのだから、司祭の服を着たあの人々は本当に神を信じているのかどうかわからない」
Q:当時、国情院から外国に移住することを勧められたそうだが?
A:「国情院の職員がやって来て直接そう言った。“2年くらい行って来い”と。私を保護していた管轄の警察署からは“よその地区に移るように”と脅迫された。“牛乳を飲むな、(私たちは)毒を入れることが出来る”“新聞を見るな、炭疽菌を塗ることが出来る”というように。私たちが借りていた店には営業が出来ないよう裁判所の赤いラベルが貼られた。(涙を流し)とても全部は話せない」
Q:「国情院過去史委員会」が大韓航空機爆破事件を巡る再調査に入ったが、あなたは一度も調査に応じていない。並の度胸ではない。
A:「有り体の脅迫や懐柔はあったが、根本を壊し、別の目的を持った調査には応じられなかった。大韓航空機爆破事件の全ての資料は国情院に保管されている。私がこれ以上補うことはない。初動捜査のときに急いで行ったので少し間違いがあったが、あとで訂正・確認された。彼等は細かいいくつかの間違いを取り上げて言いがかりをつけて政治的に利用した。それでも事実は変えられなかった。過去史委でも“北朝鮮の政権の仕業”という結論を下した。そんな結論を下しても、北朝鮮の政権に対する批判や“謝罪せよ”という勧告は一言もなかった」
Q:廬武鉉政権は何故そうしたと思うか?
A:「この事件をひっくり返せば以前の軍部や右派勢力が道徳的に打撃を受ける。政治構造を自分たちに有利にするためにそうしたのだと思う。大韓航空機爆破事件の直後、アメリカは北朝鮮を“テロ国家”に指定した。廬武鉉前大統領は“北朝鮮をそのリストから外して欲しい”と言ったと聞いた」
Q:廬武鉉政権で直面した苦難は、あなたが犯した罪に対する報いだという思いはないか?
A:「これは私個人の苦痛の問題ではない。115人が亡くなったテロ事件を政治的に利用する国がどこにあるのか。亡くなられた方々の霊魂を抹殺し遺族をだます犯罪行為だ」
Q:廬武鉉政権の国情院がそうだったのであって、今の国情院がそうしたのではないが…
A:「当時の工作に加担した人々は処罰されずに昇進した。国家観も安全保障観もない。これがきちんとした社会なのか。大韓航空機爆破事件は李明博(イ・ミョンバク)大統領とも関係がある。当時、犠牲になった労働者の中には現代建設の社員が60人以上いた。李大統領は現代建設の会長だったにも関わらず、事件の真実をひっくり返そうとする犯罪に対して手をこまねいて見ているのでは情けないのではないか」
Q:あなたは自分を殺人犯だと見ているのか、それとも体制のスケープゴートと見ているのか?
A:「私は北朝鮮の政権のロボット、道具になっていた。自動的に命令を遂行したのだ。そんな存在だったが、遺族の悲嘆と苦痛を見た。以前は想像もしなかった状況だった。私は何故こんなことをしたのか。本当に間違っていたと感じた。私をこんな道具にした金日成(キム・イルソン)・金正日が無性に憎かった。労働者たちが犠牲になり、私もそうだし、私の家族も犠牲になった」
Q:やるせない話だが、当時も事件の本質よりはあなたの美貌のほうが話題になった。
A:「そんな話が出たというのが驚きだ。北朝鮮なら、みんなが私に石を投げただろうに…」



金賢姫氏は大法院(日本の最高裁に相当)で死刑判決を受け、15日後の1990年4月12日に特別赦免された。金賢姫氏の助命は、大韓航空機爆破事件が金正日総書記の指示によるテロだということを証明するためだった。金賢姫氏が歴史的事件の「唯一の証人」だったからだ。
金賢姫氏の証言でアメリカは北朝鮮を「テロ国家」に指定し、ベールに包まれていた日本人行方不明事件が北朝鮮による拉致だったことも判明。日本列島を揺るがした。



Q:あなたはこの場でインタビューを受けている。生きているのはあなたにとって幸福なのか、地獄なのか?
A:「当時、バーレーンの空港で自分の正体がばれたとき、準備していた毒薬のアンプルを噛んだ。あのとき死ぬべきだった。死にきれずに生き残ったとき、本当につらかった。廬武鉉政権のときも死にたかった。私は大きな罪を犯したが、私を生かしたのは“証人”だからだ。真実を守らなければならない…」



(2)に続く。

【みんな生きている】金賢姫インタビュー編(2)

2011-08-23 06:50:49 | 日記
■「安企部の捜査官に私からプロポーズ…結婚の許可が出るまで2年」

金賢姫氏は特赦を受けたあと、1991年に『いま、女として』という手記を発表してベストセラーになった。
「亡命者には国家補助金が出るが、私のように摘発された人間にはそれがない。安企部では“生きていくために本を書け”と勧められた。それがよく売れるとは思わなかった」



Q:『いま、女として』というタイトルはどういう心境から付けたのか?
A:「出版社と相談してこのタイトルにしたが、私の気持ちも少し入っていた。若い頃に工作員として選抜されて革命家として生きてきたが、これからは平凡な人間として生きたかった」
Q:韓国で平凡に生きていけると思ったのか?
A:「そう願っていた」
Q:著書の印税8億5000万ウォン(約6,287万円)を大韓航空機爆破事件の遺族会に渡したと聞いた。
A:「当時、遺族と会って握手をして、たくさん泣いた。遺族は“とても胸が痛い。しっかり生きていきなさい”と激励してくれた。あの方々に対する罪の意識は、私が一生抱えていかなければならない重荷だ」
Q:心の底から、あの事件について罪悪感を抱いているのか?
A:「当時、私は(南北)統一を目指す革命家だった。爆破は罪ではなかった。革命家として任務を遂行したのだ。しかし、取り調べを受ける中で、法廷で遺族と会う中で、私自身の人間性を取り戻していった。私がしたことは統一のためのものではなく、大きな犯罪だということを悟った」
Q:1997年末、あなたを担当していた元安企部捜査官と結婚した。
A:「私にとって、安企部のセーフハウスが第二の故郷だった。親しくなった人は捜査官だけだった。しかし、この人たちは勤務地が変わると離れて行った。いつまでこうして保護されて生きなければならないのか。独り立ちしなければならないのではないか。社会に適応するために親類の家で少し暮らしてみたこともあった。安企部では私に修道女になるよう勧めたこともあった。結婚は出来ないだろうと思った。外の誰かと自由に会える状況でもなかった。そして、今の夫に“結婚したい”とせがんだ」



金賢姫氏の夫は「あのとき、私はとても悩んだ。彼女と結婚したら安企部という職場を離れなければならないからだ。安企部でも保安上の問題でかなり悩んでいた。安企部から結婚の許可が下りるまで2年くらいかかった」と語った。



Q:結婚生活で夢見たことは?
A:「私を理解してくれる人と田舎で静かに暮らすことを望んだ。外に出ず、廬武鉉政権の前まではそうして暮らしていた」
Q:小学5年生の息子と小学3年生の娘がいると聞いた。子供たちは母親の過去について知っているのか?
A:「まだよく知らない。ただし、マスコミに出たので少しおかしいと思っているようだ」
Q:近所で子供の保護者同士、交流する機会はあるか?
A:「そうした集まりに出ることはない。もしかすると、近所で私のことに気付く人がいるかも知れず、わざわざ会うケースはない」
Q:子供たちは友達を連れて来たりするのか?
A:「遊びに来にくい。警護員がいるし」
Q:あなたの子供がどのように成長することを望んでいるか?
A:「平凡に自由に」



私生活に関して、金賢姫氏の答えは短かった。
金賢姫夫妻は家に固定電話も携帯電話も置いていない。公衆電話を利用するか、警護員を通じて連絡を取るだけだ。
今回のインタビューには4人の警護員がついて来た。

「実際に私を初めて見た人は誰もが“若い頃はふっくらしていたのに”と言う。テレビの画面では実際より大きく見えたせいもあるのだろう。かなり長い歳月が流れたが…」
安企部に保護されていたとき、金賢姫氏に拳銃射撃をさせたところ百発百中だったという。工作員時代、男性1、2人を相手に出来るほど優れた格闘の実力を持っていたとのことだ。
金賢姫氏は背筋をピンと伸ばして座っていた。24年前のバグダッド空港に戻るときが来た。



Q:爆破を目的として大韓航空の858便に搭乗した。そのとき、どういう感情を抱いていたか覚えているか?
A:「平壌の東北里招待所で“南朝鮮(韓国のこと)の飛行機を吹き飛ばせ”という任務を命じられた。1988年のソウルオリンピック開催を前に、南朝鮮傀儡の“二つの朝鮮”策動を防ぎ敵に大きな打撃を与える。敵後(敵の背後)で任務を遂行しなければならないということだけを考えていた」
Q:とは言え、当時あなたは25歳と若かった。
A:「工作員として初の任務だった」
Q:それなのに?
A:「実際、金勝一(キム・スンイル)おじいさんが薬をくれた。飛行機に乗ると韓国語で“ようこそ”と挨拶された。工作員になる訓練を7年8ヶ月にわたって受けたが、そのとき初めて南朝鮮の人を見た。私は正体がばれるのではと思い、ハラハラした」
Q:飛行機に乗っていたのは韓国から中東に出稼ぎに行っていた労働者がほとんどだった。罪もない人間を殺すというのは…
A:「北朝鮮で作戦を研究した際、外国人が乗らない航空機を狙った。国際問題にならないように」
Q:3年ぶりに韓国に帰国する人々が韓国語で話しているのを聞いたか?
A:「後ろから3番目の席に座った。隣の席には西洋人が座っていた。目を閉じると、韓国語が聞こえてきた。会社の話をしているようだった。夕食を終えると、みんな眠りに就いた。少し動揺したが、中央党がしっかり理解した上でこの任務を与えたのだろうと思った。統一のためには犠牲を払わなければならないという、革命家としての決意を固めた」
Q:当時、あなたが知っていた外の世界の情報は?
A:「世の中を知るというより、北朝鮮で教えられた通りに動くロボットだった。もちろん、海外実習も行った。外の世界は北朝鮮よりも自由で豊かだった。しかし、“韓国がいつも攻撃しようとしているから、自分たちはこうするしかない”と教わった。北朝鮮が大変で食べていけなくても、二心を抱くことが出来なかった。受け入れられなかったのだ」
Q:大韓航空機爆破の指令を受け、金総書記と会ったことはあるか?
A:「ない。任務を命じられたあと、朝鮮労働党対外情報調査部のイ・ヨンヒョク部長と招待所で会ったことはある」
Q:何故、金総書記直接の指示によるものだと主張するのか?
A:「北朝鮮は金総書記の指示なしには銃弾1発さえも撃てない国だ。1ヶ月かけて工作コースを計画する際、おじいさん(金勝一)が“バグダッド路線はよくない”と言った。“戦時中の国を通過するため荷物の検査がうるさいだろう”という意見を出した。そのとき、対外情報調査部の課長が“すでに批准(裁可)が下りているため、今回はそのままやるように”と言った。北朝鮮では金主席・金総書記以外に批准出来る人間はいない。対南工作部署は金総書記が指揮していた」

【金勝一】
金賢姫氏の工作のパートナー。当時の推定年齢74歳。
【対外情報調査部】
拉致・テロ・海外情報活動を担当する部署。



1987年11月12日午前8時30分、金賢姫氏は金勝一とともに平壌の順安飛行場を出発した。出発直前、「私たちは敵後で生活する間、3大革命規律を厳粛に守り…命尽きるまで親愛なる指導者同志の高い権威と威信をあらゆる手だてを尽くして守り、戦う」と宣誓した。
金賢姫氏一行は同日夜にモスクワに到着したあと、すぐさまハンガリーの首都ブダペストに飛んだ。そこから陸路でオーストリアの首都ウィーンに入った。このときから日本人親子を装い、日本のパスポートを使った。金賢姫氏はコート、セーター、靴、腕時計、ハンドバッグ等、主に日本製品を買い込んだ。2人の工作員に与えられた工作費は1万ドル(約76万円)だった。
2人はオーストリアから再び航空便を使ってユーゴスラビア(当時)の首都ベオグラードへと向かった。ここで、同行した工作指導員から爆薬が仕込まれた日本製(パナソニック製)のトランジスターラジオと液体爆薬を渡された。
イラク行きの航空便でバグダッドに入ったのは11月28日だった。



Q:何故このような長い道のりを?
A:「身元を偽装するためだった。大韓航空の858便に乗るため、おじいさんがずいぶん研究した」
Q:パナソニック製のトランジスターラジオは片手で持ち運び出来る程度の大きさだったと思うが?
A:「そうだ。スイッチを入れて9時間後に爆発する。電池薬(バッテリー)は特殊に製造された物だった。半分は爆薬、半分はラジオを組み込める仕組みになっており、他の物で代替出来ないバッテリーだった」



2人がバグダッド空港の保安検査台を通過する際、検査要員が「バッテリーを持って飛行機に乗ることは出来ない」と言い、ラジオからバッテリー4個を外してゴミ箱に投げ入れてしまった。大韓航空機の爆破が失敗したと思わせる瞬間だった。
「全く予想出来なかったことだった。それまでも海外に出入りしていたが、こんなことはなかった。所持品を全部取り出す等、検査は厳しかった。アラブ諸国に関する情報が無かったせいだ。どうすればいいかわからず、おじいさんのほうを仰ぎ見た。おじいさんは悠然とバッテリーを拾ってはめ込んだあと、ラジオを手に取った。“ただのラジオなのに、乗客にこんなことをしてもいいのか”と抗議した。それで検査を通過した」



Q:もし、そこで失敗していたら?
A:「計画責任者は問責され…発覚したわけではないから、私はまた工作活動を続けていたかも知れない」



2人は座席の上の棚にトランジスターラジオと液体爆薬を詰めた買い物袋を置いたまま、経由地のアブダビ(アラブ首長国連邦)で飛行機を降りた。
大韓航空機が爆破した場合、アブダビで降りた乗客15人が追跡対象になる。2人は「痕跡」を消さなければならなかった。ローマ行きの飛行機に乗り換える「逃走用」のチケットを準備していたが、そのチケットは通過ビザの問題に引っかかった。
どうすることも出来ず、乗って来た航空券に記された通り、バーレーン行きの便に乗らなければならなかった。
翌朝、バーレーン行きの飛行機に乗るまで通過旅客向けの待合室でじっと待機していた。その間に、ミャンマー近海の上空で大韓航空機は爆破された。



Q:大韓航空機がいつ爆発するか、待合室で時間を計算していたのか?
A:「正確に爆発したかどうかわからない状況だった。当時は私たちの脱出ルートが塞がれ、ひどく焦っていた。私たちに捜査の手が迫っているはずだったが、待合室から抜け出すことも出来ず…」
Q:あなたは115人が犠牲となった爆破の現場を見ていない。そのせいで、自分の犯罪に対する罪悪感が弱かったのではないか?
A:「当時、罪悪感というものはなかった。そんなことを考えていたら、革命家でも北朝鮮の工作員でもない。後に遺族と対面するまではわからなかった。法廷で“あなたがやったはずがない。どうしてやっていないと言わないのか”という遺族の絶叫を聞いて、本当に気の毒に思い、申し訳ない気持ちになった。早く殺して欲しいと思うばかりだった。死ぬのは簡単だが、生きているのはつらかった。自分が生き残るとは思わなかった」



(3)に続く。

【みんな生きている】金賢姫インタビュー編(3)

2011-08-23 06:44:40 | 日記
土曜日の午後、2人はバーレーンに降り立ち、ホテルに泊まった。イスラム圏では日曜日が公休日ではなく、旅行会社が営業していることを知らなかった。
そのまま、2日間滞在した。
「アラブ諸国についての基本情報が全く無かった。工作資金の問題で、机の上だけで作戦を立てていたからだ」

2人に対する追跡が始まった。バーレーンの入国カードに「真一」「真由美」と書いたことが端緒だった。日本人なら「蜂谷真一」「蜂谷真由美」とフルネームで書くか、あるいは「蜂谷」という姓だけを書くからだ。
「おじいさんがそう書けと言った。身元が完全に判明しないようにやったことだが、それが発端になるとは思っていなかった。おじいさんのパスポートは本物の日本人のパスポートを盗用したもので、書類上は偽造ではなかった。だが、私のパスポート番号は男性に使われる番号だった。けれどそのときまで、ヨーロッパでも摘発されたことはなかった」



Q:その日の夜、韓国大使館の職員があなたを訪ねてホテルに来なかったか?
A:「捜査網が狭まっているのを感じた。私は知らないふりをして横になっていた。おじいさんと筆談したあと、帰って行った」
Q:その職員が帰ったあと、どういう会話をしたのか?
A:「おじいさんが“爆発したのは確実なようだ。証拠が無いため私たちを逮捕することは出来ない”と言った。翌朝、空港に向かうとき“悠然と行動しろ。飛行機に乗れば済む”と言った。それでも、“万一のために…”とマールボロのたばこ(毒薬のアンプル)を手渡された」



■「大学2年のときに工作員に選抜。映画で春香役を演じると思っていた」

金賢姫氏は幼い頃は女優、その後は外交官になるのを夢見ていた。そんな金賢姫氏は平壌外国語大学日本語科の2年生だった1980年(当時18歳)、工作員に選抜された。
「書類を検討し、学校に来て私のことを把握したあと、中央党の幹部が3回面接した。父は外交官(当時、アンゴラ大使館で勤務)だったため、出身成分は良かった。私は優等生で、日本に侵入させるという目的のために日本語を学んだ私に白羽の矢が立ったようだ」



Q:そのとき、「工作員」を選抜する審査だと知っていたのか?
A:「選ばれたときはわからなかった。当時、“『春香伝』の映画を撮る”という話が広まっていたため、春香役を演じるのだろうと思っていた。金総書記がかなり関心を持っていた映画だった。選抜審査のあと、中央党の幹部が乗用車で家まで送ってくれ、“服をまとめてトランクに詰めろ。今日は休み、明日連れに来る”と言った。私がどうなるのか、親さえも正確には知らなかった」
Q:選抜されたとき、選ばれた人間だと感じたか?
A:「中央党は力がある上、神のような存在の金日成国家主席に最も近くでお仕えするところだ。そこに選抜されたのだから光栄に思い、浮かれていた。親元を離れる寂しさはなかった。まだ若かったから」
Q:自分が何をすることになるのか、いつ知ったのか?
A:「初めて妙香山地区にある金星政治軍事大学に入ったときだ。そこで“密封教育”を受けた。統一のために働くという革命家のプライドを学び、統一革命で失敗したケースの分析、情報収集、抱き込み、行軍、格闘、射撃訓練、秘密のアジトに隠れる方法等を学んだ。その後も韓国人化教育、日本人化教育、中国人化教育、海外実習に至るまで7年8ヶ月にわたり工作員になる教育を受けた」
Q:なぜ工作組を2人で編成するのか?
A:「1人では送らない。互いを補い合う面もあるが、監視する役割も果たす」
Q:金勝一と日本人親子を装ったが?
A:「おじいさんは6・25戦争(朝鮮戦争)の頃からその部署で働いていたと話していた。病弱な老人と若い娘が一緒に旅行していれば疑われることはなかった。実際に薬を調達してあげたこともあった。手に負えず“休んでいこう”とよく言っていた。1984年にも一緒に海外を旅行した。そのとき、おじいさんは事業のため一時韓国を訪れた。おじいさんと一組になったのは、その経験を私に引き継ぐためという目的もあった」
Q:金勝一とはよく会話をしたのか?
A:「工作員は自分の正体を明かさない。お互いのことを尋ねてもいけない。自分の本名も漏らさない。おじいさんは私を“真由美”と呼んだ。2人は日本語で会話した。もちろん、長い間一緒にいると相手について少しは知ることが出来る。取り調べを受けたときに出した資料は、そうして得たものだ」
Q:金勝一はどういう人物だったのか?
A:「温厚で、本を読むのが好きな研究家だった」
Q:そんな人物が工作員になったということか?
A:「性格とは関係ないのではないか」



金勝一はバーレーン空港で正体がばれたとき、毒薬のアンプルを飲み込み自殺した。
遺体は韓国に移送されて解剖された。当時の体重は45kgにも満たなかったとされる。

「10分後にローマ行きの飛行機が出発するのに…それに乗りさえすればいいのに…もうダメだな。脱出は難しいようだ」
金賢姫氏は舞台の上で独白をしているようだった。
金賢姫氏一行の脱出は、バーレーン空港の検査台で問題に突き当たった。日本のパスポートが偽造と判明したからだ。バーレーンに駐在する日本大使館の職員がやって来た。
「私たちは日本に送還されるところだった。そのとき、おじいさんが“日本に送られたら秘密を全部白状させられてつらい死に方をすることになるので、日本に向かう飛行機の中で自決するのがいい。私は生きるだけ生きたから構わないが、真由美はまだ若いので心苦しい”と囁いた」



Q:自殺を勧められたときの心境は?
A:「万一のために毒薬のアンプルを持っていたが、それを使用することになる状況がやってくるとは思わなかった。最期だと思った。母の顔が思い浮かんだ」
Q:ためらいはなかったのか?
A:「実際のところ、アンプルを飲み込む練習をしたことはなかった。なので、おじいさんに“飛行機に乗り込むとき、合図して欲しい。私が先に口に入れるから、それを確認したあとでおじいさんが飲み込んで”と言った」



しかし、日本に向かう飛行機の中で実行しようとしていた自殺計画に手違いが生じた。
2人は待合室で身柄を拘束されていた。バーレーンの警察が金賢姫氏に「ハンドバッグを渡せ」と言った。金賢姫氏はたばこの箱を取り出してバッグを差し出した。だが、警察はたばこの箱も要求した。金賢姫氏は毒薬のアンプルが入ったたばこを抜き取り、箱だけを渡した。すると警察は「そのたばこも渡せ」と言った。
警察がたばこを奪おうとした瞬間、金賢姫氏はたばこのフィルターを噛んだ。警察官がのしかかったが、アンプルは割れて気化した青酸の成分が金賢姫氏の体内に入っていった。その間に金勝一もアンプルを飲み込んだ。



Q:「服毒ショー」という主張もあったが?
A:「当時の日本大使館職員・砂川昌順氏が現場を見て書いた手記がある」



2003年に出版された『極秘指令』という本には、次のような内容が記されている。
「真一と真由美は、激しい発作状態で全身がけいれんしていた。椅子に座ったまま、全身の筋肉の末端までけいれん状態だった。真由美の体が、さらに激しいけいれんを起こした。心臓にショックを受けたように体が跳ね上がったりもした。目は閉じ、口は少し開いていた。口の左側に裂傷が見え、血が付いていた。今度は真一のけいれんがひどくなり、真由美は静かになった…」



Q:毒薬のアンプルを飲もうとしたときのことや、その直後の状況を覚えているか?
A:「口に入れた瞬間、意識を失った。記憶は全く無い」
Q:バーレーンの病院で目覚めたとき、何が見えたか?
A:「話し声が聞こえた。自分が生き残ったとわかった瞬間、本当につらかった。生きていてはいけないのに、この秘密をどうすれば守れるのか。死んだおじいさんが羨ましかった。どうしたら死ねるのかを考えた」



この時点で2人の国籍と正体は明らかになっていなかった。しかし、安企部のある捜査官は毒薬のアンプルを飲んで自殺を図ったというニュースを聞いた瞬間、「北朝鮮の工作員だ」と察知した。
2年前(1985年)、在日韓国人のスパイ・辛光洙(シン・グァンス)を摘発したとき、服の襟から全く同じ毒薬のアンプルが発見された。
辛光洙は1986年に死刑判決が確定したが、1988年に無期懲役へと減刑された。翌年、日本の国会議員たちは「民主化運動で逮捕された在日韓国人の釈放」を要求する嘆願書に署名している。菅 直人首相も当時サインした1人だ。
そうした中、辛光洙は金大中政権時代の1999年、「ミレニアム赦免」で釈放された。翌年に「非転向長期囚」の送還が行われた際、北朝鮮に送られた。後に日本の警察は辛光洙が日本人拉致事件に関与したとして国際手配した。菅首相もこの問題で批判された。



Q:あなたは午前3時頃、ソウルに向かう大韓航空の特別機に乗せられた。そのときの心境は?
A:「真夜中に“服を着替えろ”と言われた。そのときまではわからなかった。車に乗せられ、どこかに向かった。飛行場に入って止まったとき、大韓航空の太極マークが見えた。韓国語が聞こえた。虎の巣穴に向かうような気持ちだった。あらゆる拷問にかけられてズタズタに裂かれ、秘密を喋らされて殺されるのだろうと思った」
Q:機内にいた韓国の捜査官を見て、どうだったか?
A:「最初から目を閉じていたので何も見えなかった。誰かが“おまえが北朝鮮の人間だということを、我々はみんな知っている”と言った。ひょっとしたら舌を噛むかも知れないと、猿轡を噛まされた。この先受けるであろう拷問のことを思うと、怖かった。心の中で“屈せず戦うべし”という革命歌を歌った」
Q:韓国に護送された1987年12月15日は、大統領選挙の前日だった。
A:「工作の任務を命じられて北朝鮮を離れたときも、大統領選挙があることは知らなかった。そんなことを知らされることもなかった。ひたすらソウルオリンピックの阻止が目的だった。参加国登録申請の受付は1988年1月17日までだったため、その前に打撃を与えなければならなかった。そうすれば、他の国々は申請をしないだろう。ところが、韓国に来てみると選挙関連の政治的事件になっていた。今回の事件を受け、廬泰愚(ノ・テウ)候補が当選したという話を聞いた」
Q:選挙に利用されるだろうという情勢判断が出来ずに工作を実行したということか?
A:「北朝鮮でも全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領(当時)を“テロ大将”とかなり罵っていた。風刺劇もやった。そんな軍部を助けようとするだろうか」
Q:全斗煥・廬泰愚両元大統領と当時会ったのか?
A:「ない。金泳三(キム・ヨンサム)元大統領とは以前、会ったことがある」
Q:あなたは南山の安企部地下室で取り調べを受けた。初日のことを覚えているか?
A:「拷問されて、ひどい扱いを受けるのだろうと思ったが、捜査官が“ここに来るまで大変だっただろうから、今はゆっくり休むように”と言った。ソウルの男性たちの話し方は何故こうもソフトなのかと思った。そして入浴した記憶がある」



(4)に続く。

【みんな生きている】金賢姫インタビュー編(4)

2011-08-23 06:41:38 | 日記
その日の夜、捜査官たちは自殺防止用の猿轡を外す問題について話し合った。それを外したあと、もし金賢姫氏が自殺でもしたら「韓国が拷問した」とでっち上げの濡れ衣を着せられる。
だが、いずれにしても取り調べのためには外すしかなかった。



Q:そのときには自殺する勇気は無くなっていたのか?
A:「部屋の中で数人の捜査官が私を見張っていた。他のことは出来なかった。どうすれば秘密を守れるかだけを考えていた」
Q:取り調べを受ける際に感じた最初の文化的ショックは?
A:「翌日だったか、夢うつつの中で捜査官たちが“誰それに入れた”と会話するのを聞いた。何の選挙をしたのかと訝しく思った」
Q:取り調べを受けるとき、中国語や日本語を交えて答えたと聞いたが?
A:「上手くいけば中国に追放されるのではないかという希望を持っていた。百翠恵という名前の中国人だと主張した。捜査官たちは“おまえは北朝鮮から来たのだろう”“おまえに過ちを犯させた金正日が悪い”と言った。話がわからないように振る舞うのは難しかった。内輪で笑い話をするとき、笑わないよう表情を保つのも大変だった。何より、寝ている間に韓国語で寝言を言うのではと不安だった」
Q:あなたは12月23日午後5時頃に自白したことになっている。取り調べを始めてからわずか8日目だ。前日、乗用車の後部座席に乗せてソウルの夜景を見せたのが功を奏したといわれているが?
A:「ソウルを見学しながら捜査官たちの話を聞く中で、心を動かされた。私が思っていることと全て違っていたから。どんなに私が嘘を言っても正確な事実を突きつけられてはどうすることも出来なかった。良心の呵責もあった」
Q:捜査官が「では名前を教えてもらおうか?」と言ったとき、あなたは「金属の金の字」と初めて韓国語で話したというが?
A:「工作員に選抜されて以降、“キム・オクファ”という仮名を名乗ってきた。8年ぶりに自分の本名を言うので決まりが悪かった。韓国語を使ったことで自白したことになった。実際は、口を開きたくても私のせいで処罰される北朝鮮の家族のことがいつも胸に引っかかっていた。人間として、真実を明かして死のう。それが罪を償う道だと考えた」
Q:その後、家族の知らせは?
A:「わからない。(目を赤らめ)私のせいで…」
Q:実際に目にした韓国で最も印象的だったのは?
A:「自由に話し、表現し、考える。そんな自由な点。人生に生気が感じられた。歴史についても学んだ。それまではハングルを誰が創成したのかも知らなかった。北朝鮮では金総書記が最も偉大だということしか知らなかった」
Q:歴史に対する知識不足はあなた個人の問題ではないのか?
A:「全体的にそうだ。北朝鮮の人は歴史を知らない。“三国があった。高麗が統一した”ということは知っている。だが、歴史上の人物については習わない。故・金主席についてだけ教え、それでテストをする。嘘の教育だった」
Q:あなたは以前あるメディア関係者と会い、「韓国ではヒストリー(History)を教え、北朝鮮ではヒズ・ストーリー(His Story)を教える」と言った。
A:「金日成のことしか学ばなかったので、ここに来て韓国の歴史があるということをようやく知った」



韓国に護送された当時「蜂谷真由美」だった金賢姫氏は1988年1月15日、「金賢姫」という名前で初めて記者会見を行なった。そして、1990年3月27日、大法院(日本の最高裁に相当)で死刑が確定した。
「私は当然死ななければならないと思っていた。ところが死刑宣告を受けた瞬間、どっと力が抜けたのか涙が出てきて座り込んでしまった。親のことが頭に浮かんだ。そのとき、私は間違いなく人間だった」
15日後、金賢姫氏は特別赦免された。



Q:世間の人々の目に、あなたはどう映るだろうか?
A:「私をどう認識するかによって違うだろう。否定的にも肯定的にも…」



『朝鮮日報』紙記者は最初に会ったときに「ここまでどうやって来たのか?」と声をかけたところ、金賢姫氏は「そんなことを尋ねてはダメ」と事務的に答えた。話をするほど金賢姫氏は堅いという印象を受けた。
そこで、こんな冗談を言ってみた。



Q:一緒に暮らしていたら、ご主人は言いなりだろう?
A:「夫は慶尚道出身で、時々大声を上げることがある。私は静かに話をするタイプだ」



金賢姫氏は自分を「偽者」に仕立て上げようとした廬武鉉政権下で直面したことを語るとき、感情の抑制が上手く出来なかった。声が上擦り、涙を見せたりもした。



Q:ストレスを感じたら、どうやって解消するのか?
A:「洗濯をして…」
Q:外部での活動は特になく、家では主に何をしているのか?
A:「新聞を最初から最後まで細かく読む。読書をすることもある。少し前にジョージ・オーウェルの『1984』を読んだ。私は北朝鮮を知っているので、この本が一層リアルに感じた」



金賢姫氏は安企部で取り調べを受けたとき、自分に日本語を教えた「李恩恵(リ・ウネ)」について詳しく話した。これをもとに日本の警察はモンタージュを作成、金賢姫氏に写真で確認を取った末、「李恩恵」は1978年に2人の子供を残して行方不明になった田口八重子さんだと発表した。
金賢姫氏は2009年、田口さんの家族と面会した。また、昨年には日本を訪問。日本人化教育を受けたが、日本に行ったのはこのときが初めてだった。



Q:ファン・ジャンヨプ氏に会ったことはあるか?
A:「廬武鉉政権の末期だったか、ファン・ジャンヨプ先生が私に“会いたい”と言って訪ねて来た。私が“偽者”にされ、国情院と戦っていたときだ。ファン先生は“嘘には絶対に屈してはならず、闘争しなさい”とおっしゃった」
Q:隠れて生き続けるのか?
A:「懺悔しながら隠れて生きたかった。しかし、静かに生きる運命にはないようだ」
Q:韓国で24年間暮らして来たのに、訛りが…
A:「歳を取るほど、北朝鮮訛りがひどくなってきた」



※この記事については
【みんな生きている】
ファン・ジャンヨプ編
http://m.webry.info/at/96968710/201004/article_6.htm;jsessionid=3263A545DE4006D18AEC2B944823BEA1..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on
【みんな生きている】
李韓永編
http://m.webry.info/at/96968710/201004/article_22.htm;jsessionid=3263A545DE4006D18AEC2B944823BEA1..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on
【みんな生きている】
偽装脱北者編
http://m.webry.info/at/96968710/201004/article_20.htm;jsessionid=3263A545DE4006D18AEC2B944823BEA1..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on
【みんな生きている】
日本社会党編
http://m.webry.info/at/96968710/201005/article_26.htm;jsessionid=3263A545DE4006D18AEC2B944823BEA1..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on
【みんな生きている】
金賢姫インタビュー編
http://m.webry.info/at/96968710/201007/article_36.htm;jsessionid=3263A545DE4006D18AEC2B944823BEA1..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on
も合わせてご覧下さい。

【みんな生きている】APPG書簡編

2011-08-13 20:14:06 | 日記
《イギリスの上・下院議員、韓国の国会議員に北朝鮮人権法制定を促す書簡》

2011年7月20日。
この日は韓国の進歩陣営にとって恥ずべき日となった。ただし、それは進歩陣営が常日頃から掲げる「進歩」という言葉が真実であればの話だ。
しかし、進歩陣営は恥じるような気配を示さなかった。このことはつまり、進歩陣営がよく使う「進歩」という言葉が、実は虚偽のものだったことを示しているのだ。
イギリスの上・下院議員20人は7月20日、北朝鮮人権法の制定を求める書簡を韓国の与野党4党の代表宛に郵送した。書簡を送ったのはイギリス議会の「北朝鮮に関する上・下院共同委員会(APPG)」に所属する議員たちだ。
議員たちは書簡の中で韓国の国会議員に対し

「北朝鮮の人権問題を改善することは、韓国だけでなく国際社会の利益にも合致すると信じる」

と諭し、法案をただちに制定するよう促した。2000年に北朝鮮と国交を結んで平壌に大使館を置くイギリスも、北朝鮮に対しては堂々と人権の改善を求めている。
韓国国民はこの書簡のことを知ればおそらく恥ずかしく感じるだろうが、進歩を自認する国会議員たちは何も感じていないようだ。
大韓民国にやって来て生活している脱北者の数はすでに2万2千人を超えた。脱北者たちは口から血を吐くように北朝鮮住民の生活や強制収容所、教化所等の実情を日々語ってきた。しかし、韓国の野党第1党である民主党や複数の進歩政党は2005年に発議された北朝鮮人権法を、「北朝鮮を刺激する恐れがある」として今日に至るまで議場の片隅に追いやっている。
アメリカは2004年、日本は2006年に北朝鮮人権法を制定し、国連は2005年から毎年北朝鮮人権決議案を採択している。欧州議会は2006年と2010年7月、65人の議員のうち賛成64人と圧倒的多数で北朝鮮人権決議案を採択した。
「人権」という人類の普遍的価値の前では保守でも進歩でも一致した声を上げているのだ。今回書簡を送ったイギリスのAPPGに名を連ねる議員にも、保守党所属もいれば労働党所属もいる。「北朝鮮の人権を問題として取り上げれば北朝鮮の人権問題がさらに悪化する」というおかしな論理を語る進歩勢力は、地球全体を見回しても韓国の進歩陣営しかない。
アメリカの北朝鮮人権法には「北朝鮮政権は金正日(キム・ジョンイル)総書記が絶対的な権力を握る独裁国家」と明記されているが、それでも北朝鮮はアメリカと直接対話をしようと必死だ。
韓国の国会がやるべきことを怠っているため、脱北者や北朝鮮人権団体等の関係者はこれまで1ヶ月かけてロンドン・ベルリン・プラハとヨーロッパの3都市を回り、北朝鮮の人権問題に関連する討論会や集会等を開催して来た。イギリスの議員たちが書簡を送った理由も、人権活動家が「北朝鮮人権法が韓国でも制定されるよう支援して欲しい」と声を上げたからだ。
民主党内で常に進歩を語る議員たちも、またそれ以外の進歩政党も、「真に恥ずべきこととは何か?」をしっかりと理解しなければならない。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
(脱北者Aさん。脱北者の手記集より)
※この記事については
【みんな生きている】
玄炳哲編
(4月16日掲載)
【みんな生きている】
シュタージ博物館編
(6月27日掲載)
【みんな生きている】
北朝鮮人権国際シンポジウム編
(7月16日掲載)
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