
財団康楽寺 西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である。
日本レミントンランド再考(15) 日本語のワープロ元年は昭和57年を言われる。その時日本タイプは何をしていたかと言えば、父が合併した大阪新幹線駅前の土地を丸紅に売りその金で本社ビルを建て替えていたのである。しかも売却益を入れても決算は赤字だった。この時期から急激に売上がダウンしたのである。アメリカでのワープロの概念は昭和40年頃からと云われる。英文は20数文字であり日本語は4万7千文字は最低必要とされる。東芝は昭和53年に630万で売りだした。昭和58には50万円になった。その後ICが開発されて、小型化が加速され、ウインドウズが開発されたが、此処10年くらいの間である。日本タイプの取締役等な何の努力もなしに、昭和60年にキャノンに会社を売却している、日本タイプは日本レミントンと言う会社があったのだから、お互いに協力しして日本語処理システムを考えていれば会社を売る必要はなかったのである。会社が父の子供のものになるからと結う考えでいたから、取締役で会社の資産を自分等で分け合う事に専念していたのである。私が仕事にアブレテ居た時、桜井繁雄の所に行き、仕事を頼んだが断られた経緯がある。その時かれは日本タイプの社長であった。岸信介氏のところに頼みに行ったころである。この頃は父の戸籍上の子供を相手に桜井能唯が訴訟を起していたときである。勿論この様な訴訟を起していることは私には知る由もない。貞造に相談したが桜井繁雄と同じく冷たくことわられてる。とにかくこの頃は彼等は即ち日本タイプや日本観光の取締役達は如何にして父の資産を自分の物とするかに全精力を挙げていたのである。このプログの写真は会社が赤字の時に建てかえた日本タイプビル
ですが、いい気な奴だとお気に障りましたら、お手数ですが、クシャクシャに丸めて、捨ててやってください。
それでは、よろしくお願いします。