白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

桜井能唯を中心とする桜井繁雄等旧日本観光役員えの反論

2008年10月04日 07時11分04秒 | 白雲楼

此処に至るまで私は毎日毒薬を、判らないように飲まされていた。止水明鏡の男は私の悩んでいる様子を見て、鼻が悪いからだと鼻の洗浄に通わされ、ここでも鼻疸疽薬を塗布され頭が狂ってきたのである。それと夜毎のパイロットセックスで、私は廃人如く狂ってきたのである。そこで同級生に誘われ、金沢国立病院の種村院長の手術を受ける事になるのだが、実際手術台に上がって見ると執刀するのが偽医師の中村昂章である事がわかった。この男は医師としての国家試験に落ち、高校の先生をしていたのだ。之も止水明鏡の男の差配である。私の父は奨学金支給を康楽寺事業の一部としていたので、父の死後父の財団の管理人だった止水明鏡はその差配力で、教育委員会を牛耳り、この偽医師も私の頭を破壊させるために学校に当初臨時教員として採用させたのである。この男は村の真言宗の入り婿であった。わたしが通っていた小学校の裏手にあるお寺で、私が中学校の相撲の選手で練習している時、時々来ていた。青白い顔をした何とも不気味な感じのする男であった。止水明鏡の顔も絶えず青白かった。この男が止水明鏡と父の白雲楼の増資の際、名義人の募集をこの男に依頼していた。白紙委任状と署名した書面を渡せば、株主として配当を受けtろることが出来る話であった。勿論金は一文も要らない。所謂名義かぶである。 この寺は空海が創建したとも言われている。空海が能登まで来て創建したとは考えられないが、日本にキリストの墓がある地方があることからすれば、納得がいく。能登地方は九条家の荘園がかってあり、この寺の親寺は、日野家の祈祷所と伝えられている。日野家といえば大正天皇の生母の柳原家とつながり、私の母三条西家の香道にもかんけいしている。三條西公正氏が亡くなった時、その回想録に母の名前が出てこない。母は三条西家では小さくなっていたのでであろう。誰も後ろ盾がいなかったからである。こうゆう世界も金が支配し、桜井能唯の金の支配に屈していくのである。その裏には弁谷貞造の存在が影に日向について回るのである。 止水明鏡の祖先は絵付け師でこの偽医師の寺の、釜場で絵付けを行っていたという。この寺の付近の百姓は能登杜氏の発祥の地と言われている。益谷家や父が買った旧家の主は皆弁谷けの親戚で酒作りだったので、この偽医師とのつながりは深いのである。 父は買取り、私に残した上記の旧家があり、朝鮮や支那との交易で財を蓄えた家柄であったが、没落したので父が買い取り私の名義にするようにとしていたのだが、政敵の益谷秀次が勢力を張り、父の死後は益谷一色となったかんけんで、父の約束は私の小さいこともあり、反故とされ、桜井芳忠が自分ものとしてしまった。私の頭が破壊されたのもこの頃である。父はこの地方の山々を買取、地元の漁業や農業の発展に尽くしたのである。しかし現実は桜井芳忠をはじめ止水明鏡が懐を肥やしたばかりである。 桜井芳忠は白雲楼を倒産に追い込んだ張本人であるが、地元では名士として通っている。益谷一派つまり父の異父妹の子供等は、父の偉業を次から次えと破壊していくのである。 桜井芳忠が名前を能唯と変名したのは、昭和41年の年で、佐渡の桜井であるとして、昔は本間家の系列であると言い出したのである。古文書を掻き集め、金沢大学の先生に鑑定してもっらったが、金の力で靡かせ、佐渡家の出身として桜井古文書を出版各方面にバラ播いたのである。しかし桜井能唯の云う事は嘘八百であえることが 、下記に記すように、彼の変名の件で暴露されるのである。それを実際上とりしきったのは、私の戸籍上の弁谷貞造である。 父はこの佐渡本間家の子孫だとし、分家にされたのである。何故桜井芳忠が桜井能唯と変名したかといえば、父の本家筋である桜井梅室の子供が、桜井能監といい明治時代は廃物希釈で社寺が廃物され壊されていくのを、大隈重信とともに阻止したひとであり、社寺局長として活躍した。父の実家の関係人の名前を取って自分の名前にしたのである。しかも父が生涯の事業にしていた康楽寺を乗っ取って、江戸村を作ったのである。 弁谷貞造が後ろにいて全てを一緒に行い、会社を倒産させた。いずれにしろ父の金を惜しげもなくばら撒き、時の政治家を金で篭絡し、今日の政治の腐敗に貢献している。わたしを同級生を使い、金沢国立病院の手術に誘いこみ、偽医師を手術に使い、金沢国立病院長を政治力や金力 で買収したのである。

止水明鏡


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