白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

白雲楼、起雲閣「日本タイプの崩壊」(2)桜井繁雄

2005年07月05日 10時52分34秒 | 延命順作

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

私が日本タイプに入社したのは昭和33年4月である。この頃日本レミントンランドは昭和26年1月に設立、20年契約であった。アメリカが6割、日本が4割の資本である。日本最初の合弁会社である。当時は英文タイプライターの組み立てが主力であったが、その需要は旺盛で私が入社した時は計算機、会計機や事務書類のファイル等のキャビネット等を輸入販売していた。アメリカ本土ではレミントン・ランドとと計器製造のスペリーが合併して昭和30年スペリランドとなっていたが日本では従来の通りであった。アメリカでは日本にコンピュターを売り込みにどうしてもサーヴィス部門が必要であり、日本の官庁はすべて日本タイプを通して行なう必要があった。それだけ日本タイプは官庁の信頼があつかったのである。世界で最初にコンピュータを開発したのがレミントンランドで、それに負けじと追いついて来たのがIBMである。当時は三井物産は解体中であり、昔パンチカードシステムの統計機の時代は吉沢氏が担当していたが戦後レミントンランドが出来た時、吉沢氏も取締役になった。これで日本レミントンでのコンピュターの販売も可能となったが延命順作が日本タイプとの社長を兼務していたため、色々の不祥事でアメリカの社長も首になり、日本タイプ側はヘッピリ腰で話がうまく進まず、日本タイプの相談役岸信介氏の仲介があったが話が進まず、結局三井物産がもとのサヤに収まって、東芝の合弁で日本ユニパックが設立された。父は日本タイプ340%アメリカ側が60%としたのは、将来三井物産の参入を予定しての事である。アメリカ側があくまでも日本タイプの参入を希望したが、将来の発展を見込めない重役連はしり込みしたのだ。私を社長にするのが嫌だとしても、将来を見据えての決断が出来なかった。そこは法律の国アメリカである。契約上もそうなっていたのであるから、日本タイプの参加を要求してきた。ここで日本タイプと日本レミントンの決裂が生じたのである日本タイプは私が社長でないと話が進まなくなったので、手を引いてしまったのである。当時は延命順作はすでに両方の社長から身をひいており、日本橋通りの日本タイプの建設予定地にパチンコ小屋を建てそのゲームに日々楽しんでいた。私はある時日本タイプの社長室に呼ばれたが、入室した時社長が居ないので暫く立った儘でいると本間社長が突然入ってきて私に突撃する様にブツカッテ相当の衝撃を受けたが、知らん顔おしていた。たいした用事もなく人を突きとばして知らん顔をしている社長を見て何を考えているのか判らなかったこれには以上のような背景があったからである。この社長は父の金庫番といわれた人で、金の計算しか出来ない男であったが、橋を叩いても渡らないひとで、当時は給料も遅配でしかも半月払いであった。何故かその後その社長の家に呼ばれていったことがある。社内ではいつもラバーソウルの付いた靴を履いて、いつのまにか私の傍にきて黙って見ている事がしばしばあった。当時私は業務部で支店間の伝票の作成をしていた。わたくしのすグ横に居たのが日本タイプを崩壊させた桜井繁雄で当時は常務の肩書きであったが一日中手持ち無沙汰な様子で、何をしているのか判らなかった。ブログの写真がそうである。この男が一階のショルームの女を妾にしていたことを後で知った。この男が近藤荒樹の所に頻繁に行き、私が日本タイプの社長になることに反対を唱えていた


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