白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の流転したサラリーマン時代(4)

2006年03月14日 15時24分41秒 | 私の父

  財団康楽寺            西武発展(コクド、西武鉄道、プリンス・ホテル)の資金源になったのが、財団 康楽寺である

 

私が下宿していた桜井清次宅は、私の父の本邸をドイツ大使館の邸宅として
堤康次郎の仲介で日本国政府に売却した金で、父が辨谷栄に贈与した
北陽土地産業株式会社が管理会社として売却代金の一部で買ったものである

現在は六本木ヒルズの近くで、ここも西武不動産の仲介で買ったのであろう。
桜井清次は父より金沢市の彦三に土地を貰い、そこが北陽土地産業の本拠地
となっていた。
元々この会社は山陽土地株式会社といって、昭和初期没落した三井、三菱
に次ぐ土地に投機していた渡辺冶衛門の整理会社であったが、戦後広島から
金沢市に移転して社名を変更したのである。

この会社が父の土地管理会社として、麻布の父の本邸を管理していた。
父は麻布の本邸を金沢の郊外の白雲楼ホテルと並んで、建築した康楽寺
の本殿を建てるために康楽寺に寄付をしていたのである。
このことについては、2005年5月31日に書いた通りである。
父が亡くなる時は、中央区京橋の日本タイプビルを生活の拠点とし、そこに住んでいたのである。
父が昭和26年2月11日亡くなると、この父の本邸は辨谷貞造,昌造が二人が移り住んでいた。
父の本邸にあった国宝級の雪舟の書画等は辨谷栄が能登の家に持ち帰り、
一人で楽しんでいたのである。
そのほかの父の家に高級家具や敷物等は、会社の重役連中がそれぞれ
家に持ち帰ったのである。
この頃私は弁谷ハシより毒薬を盛られ、鼻の手術で頭を破壊されたのである
一方辨谷貞造、昌造は父の本邸で豪華な暮らしをしていた。
貞造は桜井清次の秘書をしており、父の本邸な売却の後、清次の東京の住まい
を父の本邸売却の一部の資金で探していたのである。
それが私が下宿していた桜井清次宅となる。
辨谷栄は康楽寺の本殿の計画は無かったとして、妻ハシと共同で偽造文書を
作成するのである。この件については2005年6月4,5,7日に私の鼻の手術の項
で、書いた。

桜井清次は父より金沢に土地、建物を貰いうけているので、父の本邸の資金
の一部で東京の麻布で家を一軒買ったが、すぐ自分の名義にすることなく、
辨谷栄が昭和29年に亡くなると、貞造を自分の子分として一緒に事を運んだ
のである。
このような状況の中私のサラリーマン時代が始まり、気違の欲ボケの者どもに
サンザンな目に遭わされて行くのである。

http://blog.so-net.ne.jp/hakuun_r/2006-05-01



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