白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

平沼亮三氏と父

2006年11月17日 11時27分20秒 | 私の父
平沼亮三氏は父が昭和26年2月11日亡くなると、日本タイプで行われた会社社葬の
葬儀委員長をされた。
同氏は日本タイプライター株式会社の取締役会長、社長、相談役として父と生涯
の友人であった。
年齢も平沼氏が父より1年上であたが、昭和34年79歳までご健在であり、横浜市長
の現役のまま逝去されたのである。
 大仏次郎氏の評「人柄もスマートで、フエアーなひとでした。政治も運動の精神から
学んだものでしょうか,公正で非のうちどころのない人でした。いまになってみれば私は
野球を通じて平沼さんを知りその立派な人柄に敬意を表しています。」
父もこういった平沼氏と生涯交際が深かったのであろう。
 父が亡くなってからも奥のとの弁や家には、毎年年賀状が届いていた。
何故か毎度年1月の10日前後に届くので、私がその年賀を見る事が出来たものである。
毎年何百枚と年賀が着ていたが私には隠されていた。
しかし私は平沼亮三氏からの年賀だけは見る機会をえたものである。
 小泉信三氏評「平沼亮三氏はどんな年の人でも対等に友人付き合いをした人だ。
まじめな反面軽妙,洒脱な座談の名手であった。」
 私が日本タイプに居た昭和33年頃、平沼亮三氏が私の働いているところに来られ
私が席を離れた時、私に丁寧に挨拶をされ、何か聞かれた事があった。
私が席に戻ってもジーとその場所を離れず、私の方を見ていられたのである。
平沼亮三氏は喉を患っていられて余り声が出なかったので、カスレタ声で話された事を
覚えている。
その内本間社長が上から降りてきて、平沼氏を連れ去ろうとしたが、同氏が動かないので
声を大きくして、同氏を連れ去ったのである。
 後で私の直属の上司であった後の逸見監査役が、私に向ってなんで清瀬衆議院議長が
来たのだろうと私に問いかけたものである。
 私の反応を試すため幹部から言われたのであろう。
平沼亮三氏の生い立ち記で「大体横浜といううところは早稲田の土地で改進党から進歩党にはいり
市会の副議長をしていた父なども、島田党「島田三郎」の旗頭で、昔大隈公の処に度々
行ったものである」と書いておられる。
 大隈公の立憲民生党の発祥地は横浜で、横浜から関東一円に大隈民権が広がった
と言うことで、父は横浜財界、政界との繋がりが深かったのである。
この写真は平沼亮三氏が昭和34年2月13日なくなられる3年前の第10回国民体育大会
開会式の聖火の最終ランナーの時の映像である。


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