信の信州からの贈り物

信州で単身生活 6年、その間に魅せられた信州の大自然。そして関東周辺の自然と花々を織り交ぜて発信しています。

2023大寒 鎌倉の古刹 比企谷・妙本寺

2023年01月28日 | 鎌倉散策



お早うございます、信です。
早いもので1月最後の週末を迎えました。

昨日は雪が降るかと思いましたが、結局この辺りは降らずに終わりました。
さすがに大寒の季、ウォーキングをしてても息が凍る程に感じますが、それでも30分も歩けば
暖かくなって膝の関節が軋まなくなってきます。

この大寒波で大雪の北日本・日本海側の皆さんに、心からお見舞いを申し上げます。





さて1月21日の鎌倉散策を続けます。
円応寺のあと巨福呂坂(ころふくざか)の切通しを下って、鶴岡八幡宮に出ました。

初詣なのか若い人が多く参詣していて、行列が出来ていたため丸山稲荷から、畠山重忠邸跡までスルーして
若宮大路を避けて小町大路で夷堂(えびすどう)橋を越えて比企谷(ひきがやつ)へ。


比企谷幼稚園です


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歴史深い場所です 

鎌倉大蔵に近く幼稚園生はこの場所を、どう学ぶのでしょうか。
「鎌倉殿の13人」がやってる間は説明し易かった・・?かな。


山門です


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すぐに境内の案内がありました


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妙本寺は、日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。開基は、比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者比企大学三郎能本です。

この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから「比企(ひきが)谷(やつ)」と呼ばれています。しかし、比企一族は建仁3年(1203年)に権力保持を目論む北条一族によって滅ぼされました。その争いを「比企の乱」といいます。

比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本でした。能本は、鎌倉の町に立って生命がけの布教をされている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりです。



方丈門というのは初めてですが


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日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。

第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きましたが、第75世 島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになりました。
(妙本寺hpより)



こちらが本堂のようです


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そうとは知らず


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持国天及び毘沙門天を祀る二天門を左に


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この二天像は美術的には評価が高いらしく、花の時期に改めて再訪しようと思っています。




租師堂の前に出ました


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その右手には梅の木が


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紅梅に


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白梅


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メジロを一生懸命追っているカメラマンがいました。







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帰りは二天門から


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比企一族の墓の前に蠟梅


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比企谷 妙本寺でした


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花の寺としても有名なようです 





   山門の傍に「比企能員邸跡」の石碑

   
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   「比企の乱」とは「吾妻鏡」に記録されたこと。
   時の権力者、北条義時が書かせたものであって、権力闘争の勝者の言い分です。
   この現代にまで比企谷の地名が残るのは、この地の人々の比企一族に対する思い入れがあった結果でしょうか。



次の寺へ行く途中、小さな社の境内に
新羅三郎(源義光)が手玉にしたという大石が


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その八雲神社の謂れです 




明日は苔寺 妙法寺を訪ねます。


 撮影日: 1月21日
 撮影場所:鎌倉市大町 比企谷 妙本寺


それでは皆様、ご機嫌よう。










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