この3月に定年を迎えられる女性の大学教授の方からご挨拶のメールをいただいた。ローマ字で書かれた署名の姓と名の間に,大文字が挿入されていた。結婚前の姓の頭文字である。この方は,研究論文に結婚後の夫の姓と結婚前のご自分の姓を併記されている。そうすることで結婚前と後との自身の研究の継続性を表明されている。わたしが知る別の女性研究者は,生涯通して研究論文を結婚前の姓で発表されていた。この方は,外国での学会に招待されて入国しようとした時,招待状とパスポートに記載されている名前が違っていたことから悶着に巻き込まれたそうである。
今日の朝日新聞の「耕論」は夫婦別姓問題を扱っていた。私自身は,選べと言われたら同姓をとるが,別姓を選択するカップルを批判したり非難したりする気は全くない。法制度的な整備を前提にすれば,選択的夫婦別姓を認めても良いと考える。
中国や韓国では夫婦別姓が普通だが,これは父性尊重の儒教的思想から来ているのであって,子供は父親の姓を継ぐことになっている(このことを巡っては論争があるらしいが)。日本では結婚に際しては男女どちらかの姓を名乗ることになっている。理屈から言えばどちらにするかは話し合いで決めるべきということになるが,実際にそうしているケースはまれだろう。私自身もそんなことを考えずに婚姻届けに自分の姓を書き入れた。
かなり前のことだが,息子たちに市からの世論調査の用紙が送られてきて,質問項目の一つに結婚に際して名乗る姓はどうやって決めるかというのがあり,盗み見た回答用紙には二人とも「当事者の話し合いで決める」が選ばれていた。彼らに乗り越えられたと思った。その数日後,自他ともに進歩的と認められる男性7,8人と話す機会があり,結婚に際してどちらの姓を名乗るか話し合ったかと問うたところ,そうしたと答えたのはたった一人だった。
この欄の論者の一人が,選択的夫婦別姓が主として女性からの主張として提起されているが,論理的には男性から提起されてもいいはずだと述べられていることに,思考の盲点を突かれる思いがした。この問題に関して男性が受け身でいるのは,やはり然るべき理由があるのだ。