先日取り上げた『とんでもない』もそうだが、この手の絵本が好みだと分かってきた。既成概念崩しから始まる設定、それから人物のキャラクターが立つ会話中心の流れ、といったところか。読み手としての自分の個性を生かせれば演じるのは楽しい。たしか訳者である小林は、コントも書いて演じていたと思う。
『オレ、カエルやめるや』
(デヴ・ぺティ・文 マイク・ボルト・絵 小林賢太郎・訳 マイクロマガジン社)
「あのさ、おとうさん。オレ、ネコになることにするや。」生意気な(?)素直な(?)カエルの子の一言から始まる、ユーモア絵本。そもそも、おたまじゃくしからカエルになったのだから、次に何になるか想像して当然かもしれない。その決定権がないこと、いや、その思いの質し方を表した絵本というべきか。
父カエルは、子カエルが訊く要望をことごとく退けるのだが、様々な動物の特性を挙げつつ、最終的な結論は「カエルはカエルだから」というもの。これは表面上、日本のことわざ「蛙の子は蛙」と似ているが、アメリカの作家とカナダのイラストレーターが作った絵本は、「存在の肯定」というふうに締め括られる。
オオカミが登場し、カエルのなりたい動物らは自分の好物で、カエルだけは食べられないと語る。嫌がっていた特性が襲われない理由と知ることでカエルは自分を認めるが、サラリとした口調が雰囲気を出している。裏表紙にある「きみは何になる?」という問いかけをどう使うか。読んで、にこっと笑うだけでいいか。
『オレ、カエルやめるや』
(デヴ・ぺティ・文 マイク・ボルト・絵 小林賢太郎・訳 マイクロマガジン社)
「あのさ、おとうさん。オレ、ネコになることにするや。」生意気な(?)素直な(?)カエルの子の一言から始まる、ユーモア絵本。そもそも、おたまじゃくしからカエルになったのだから、次に何になるか想像して当然かもしれない。その決定権がないこと、いや、その思いの質し方を表した絵本というべきか。
父カエルは、子カエルが訊く要望をことごとく退けるのだが、様々な動物の特性を挙げつつ、最終的な結論は「カエルはカエルだから」というもの。これは表面上、日本のことわざ「蛙の子は蛙」と似ているが、アメリカの作家とカナダのイラストレーターが作った絵本は、「存在の肯定」というふうに締め括られる。
オオカミが登場し、カエルのなりたい動物らは自分の好物で、カエルだけは食べられないと語る。嫌がっていた特性が襲われない理由と知ることでカエルは自分を認めるが、サラリとした口調が雰囲気を出している。裏表紙にある「きみは何になる?」という問いかけをどう使うか。読んで、にこっと笑うだけでいいか。