すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

人間やめるやとはなかなか…

2021年06月17日 | 絵本
 先日取り上げた『とんでもない』もそうだが、この手の絵本が好みだと分かってきた。既成概念崩しから始まる設定、それから人物のキャラクターが立つ会話中心の流れ、といったところか。読み手としての自分の個性を生かせれば演じるのは楽しい。たしか訳者である小林は、コントも書いて演じていたと思う。


『オレ、カエルやめるや』
 (デヴ・ぺティ・文  マイク・ボルト・絵  小林賢太郎・訳 マイクロマガジン社) 



 「あのさ、おとうさん。オレ、ネコになることにするや。」生意気な(?)素直な(?)カエルの子の一言から始まる、ユーモア絵本。そもそも、おたまじゃくしからカエルになったのだから、次に何になるか想像して当然かもしれない。その決定権がないこと、いや、その思いの質し方を表した絵本というべきか。


 父カエルは、子カエルが訊く要望をことごとく退けるのだが、様々な動物の特性を挙げつつ、最終的な結論は「カエルはカエルだから」というもの。これは表面上、日本のことわざ「蛙の子は蛙」と似ているが、アメリカの作家とカナダのイラストレーターが作った絵本は、「存在の肯定」というふうに締め括られる。


 オオカミが登場し、カエルのなりたい動物らは自分の好物で、カエルだけは食べられないと語る。嫌がっていた特性が襲われない理由と知ることでカエルは自分を認めるが、サラリとした口調が雰囲気を出している。裏表紙にある「きみは何になる?」という問いかけをどう使うか。読んで、にこっと笑うだけでいいか。

激変と言われ目を凝らすが…

2021年06月16日 | 読書
 『ドラゴン桜』は東大合格を目指す話ではあるが、その底に流れているのは、自己実現のための現実との向き合い方だ。まあドラマなので、当然演出は現実とかけ離れた部分が多く脚色だらけだ。ただ、15年前と変わらず人気があるのは、東大を頂点とした社会構造がまだ健在である証拠とも言える。さみしい現実。




『教育激変』(池上彰×佐藤優  中公新書ラクレ)


 この対談集は大学入試改革を取り上げているので、ドラマのことが思い浮かんだ。エリートの不祥事、腐敗のことから、それを生む背景を探ると必ず「東大」の二文字は出てくる。受験によってヒエラルキーの上位へ行くことが目的化された結果ゆえの現象だ。その点が以前より固定化されてきたと、二人は繰り返す。


 「リアルな話をすれば、学者と官僚になりたかったら、やはり東大を目指すのがいいのかもしれません」(佐藤)という認識は、わかってはいても浸透せず拡大解釈される。だから、硬直した経営等に陥る様々な組織や企業では「学閥」的な動きが見られるのだ。今の大学受験制度が一種の視野狭窄を引き起こしている。


 「経済格差による教育環境の固定化」はより問題だ。ドラマでもそれに関わる出来事が設定されたが簡単に済まされた。その挙句「だからこそ這い上がれ」と常套句が使われたし、どこか時代錯誤の印象はやはり否めない。そう考えると、国の経済の歩みは、教育の機会均等の意味を形式化し固定化してしまったのだ。


 話題とされた「アクティブ・ラーニング」「道徳の教科化」「大学新テスト」等と全ては一連の流れに収まる。しかし、個々の場でそれらを担う者は眼前の課題だけで精一杯な状況に見える。根本原因として「真のエリート」の不在を嘆いても事態は改善しない。各々が「何のために」を問う習慣を身につけねば拓かず。

水無月、ぼやき通し

2021年06月15日 | 雑記帳
6月3日(木)「目標ですかあ…」
 人間ドックでは最後に看護士との面談がある。データに添っていろいろと話(指導) をされるのだが、最後に「次まで何か頑張ることを一つ決めましょうよ」とやさしく問いかけてくる。2年前の前回もあったようだ。「いやあ、でもこの齢になって、来年どうなるかもわからないしネ」と、本音でそう思った自分に驚く。



6月5日(土)「若くて必死だあ…」
 尾身会長の発言に対して、口を開いた大臣たちの言葉には苦笑いしかなかった。「別の地平から見てきた言葉」「自主的な研究の成果の発表」…ごく普通の感覚でも、今何が大事かわかるというのに、正対出来ない言い逃れにしか見えない。自分より若い政治家たちの大半に魅力を感じなくなっている。老害近しなのかなあ。


6月7日(月)「いったいいつ着るのお…」
 いまだに冬物を仕舞い込めておらずせ、ようやく好天の日に実行。しかしモノ捨てられない性格はしつこく残り、とうとうタンスやクローゼットが密林だ。ここ十数年は体型が変わらないのでスーツなどがぶら下がっている…いつ着ると問いかけて言い淀んだら、すぐに「燃えるゴミ袋」へ。年に2回はやれるかな。


6月10日(木)「何したいんだっけえ…」
 長年連れ添ったSurfesが駄目になり、もうタブレットは断念していた。しかし読み聞かせが始まり大人数対応に不満を感じ、また大型TVにつなぐ方法を取ろうと機器購入を決意。ネット検索して比較を始めたら、あちこちの魅力的な商品に翻弄され迷路に入ってしまう。駄目だ、俺はいったい何をするため買うのだ!


6月12日(土)「流行の最先端ですよぉ…」
 昨日から喉の痛みを感じる。まさか、と例の不安はないが、別のウィルスの心当たりはある。上の孫が先週末から体調を崩し園を休んでいて、下の孫にもうつったようだ。RSウィルスらしい。TVで「コロナ感染の陰で…」と、今年は大流行の兆しという報道がある。接触を止められない老人の日常は、最先端を行く。

「雨がしくしく、ふった日は」

2021年06月14日 | 絵本
 図書館ブログのネタにならないかと思い、検索システムで「6月」を入れてみたら、「講談社のおはなしシリーズ」のなかの「6月のおはなし」がヒットした。月ごとに異なる作家が書き下ろしていて、6月は森絵都。ページごとに絵はあるが、絵本というより「幼年童話」である。たまには、こんな本に浸るのもいい。


『雨がしくしく、ふった日は』(森 絵都・ たかおゆうこ・絵  講談社) 




 クマのマーくんは、雨がふるとその音が「しくしく、しくしく」と聞こえてしまう。泣きぬしをさがしに出かけ、最初に会うのは、緑色をした「あじさい」。マーくんは、そのあじさいがみんなと同じように青くなりたいと言うので、青い絵の具を持ってきて塗るが、雨のせいでみんな流され…今度は自分が泣き出す。


 周りのあじさいからある事を聞いたマーくんは…。こんなふうに泣きぬしを探しに出かけたマーくんが、一緒に問題を解決していく形で続いていく。登場するのは「ナメクジ」「人間の女の子」そして「空」と、変化のある設定が楽しい。でんぐりがえりが好きなマーくんの素直さ、共感性が読者を元気づけるようだ。


 最後に梅雨が明けてこの話は閉じるが、「つゆあけのうた」のシンプルさがいい。「つゆが あけた/つゆが あけた/なつが くるよ/なつの あとは/なつの あとは/あきが くるよ」。自然の移り変わりには訳がある。自然に逆らわない、いや自然に生かされていることを祝いたい心が芽生える。季節を言祝ぐ話だ。


 巻末にある月ごとの「まめちしき」にも頷いた。「天泣(てんきゅう)」という語を初めて知った。いわゆる「天気雨」のこと。雨の国だね日本は、と思う。

価値ある学びを探すこと

2021年06月12日 | 読書
 Eテレの「ズームバック×オチアイ」という番組を時々見て刺激をうける。とぼけた顔のように見えるが、その飄々とした雰囲気でずばりと核心をつくことを語る。全て理解できるわけではないが、おうっと思うことがしばしばあって、担当プロデューサーの突っ込みもなかなか面白い。価値観が揺らぐ快感?がある。


『0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる学ぶ人と育てる人のための教科書』(落合陽一 小学館)



 著者は大学教員をする傍ら、会社にもCEOとして務めている。今どきそんなスタイルの人も少なくない。突出した能力や資質があるからに違いないが、働き方のそういう選択そのものが、この著の内容を表している。いわば、ゴールといった捉え方がない。個々の目標地はあるはずだが、それはすぐに通過点になる。


 冒頭の「なぜ学校へ行くか」「なぜ勉強するか」と立てられた問いは、教育現場に長く勤めた者としては、幾度となく直面した経験を持つ。特に社会変化が顕著になった30年ほど前からか。おぼろげながら出した結論めいた中身は、この一節に近い。「教育にある『コンテンツ』と『トレーニング』という2つの要素


 つまり、学校教育においてコンテンツ(教科内容等)の重要性は少しずつ目減りしてきているが、トレーニング(学び方や訓練等)の要素は揺るがないということだ。ただ後者は、社会構造や世相の流れから困難度は高くなっている。ゆえに工夫のしどころはその辺りだと…気づいた頃は、やや手遅れの感があった。


 教科教育に力を注いだ頭を切り替えられなかった面はある。ただそれは言い訳めいていると承知している。今も学び続けている方々を見たとき、明らかだ。著者は「最も価値のある学びとは、本気の挑戦の中にあるトライアンドエラーです」と書く。本気の挑戦…体力や気力の維持だけを考えては、立ち上がらない。


とんでもないと言ったふり

2021年06月11日 | 絵本
 「とんでもない」という語は、どことなく「飛(跳)んでも」を連想しそうだが、語源としては「途でもない」からの転とされている。つまり「道、すじみちでない」という意味から発している。日常語だがそんなに使わないか。ただ、大げさな言い方、つぶやくような発し方、緩急のつけ方等々、表現の工夫できる語だ。


『とんでもない』(鈴木のりたけ アリス館) 



 「どこにでもいるふつうのこ」のぼくが、「さいはいいなあ よろいのようなりっぱなかわが かっこいい」とつぶやくことから始まるこのお話は、評価された動物たちが、次々にリレー的に登場する。それぞれの持ち味と嘆きがテンポよく繰り返されて面白い。また絵の描写の精密さが、とぼけた感じを強調するようだ。


 隣の芝生が青く見えるように、誰しも自分にないものはよく見える。しかし、実際うらやましいと言われた相手はそう思っていないことが多い。「あったらあったでいろいろたいへん」は身に沁みる一節だ。自己の価値に気づかず、ないものねだりをするのは、生きとし生ける者の定めか。いや、違う。人間だけだろう。


 様々な動物たちが登場してくるので、読み方に変化をつけた方が面白い。キャラクタータイプの声ができる者なら、ぴったりだ。特に「とんでもない」の言い方一つで展開にめりはりが出てくるだろう。最後のオチは、「ふつう」の子の「ふつう」らしさを出して、安心の気持ちを持たせたい。幅広い世代に合う絵本だ。

五年前の非日常が届くこと

2021年06月10日 | 雑記帳
 そうだったか、と今頃になって思うことが誰にでもある。昨日、スマホにGoogleから「5年前の写真です」のようなものが届いた。今まであまりそんなことはなかったので開いてみたら、まだ開業前の道の駅うごの加工室で家人が菓子作りの作業をしている姿のスナップだった。ああそうか、スマホにしたのはその頃だ。


 1年前に新しい機種に換えたのになぜ?と一瞬思ったが、ああGoogleにはフォトがあって、ずっとデータが保存されているのかと本当に今さら思う。となると、最初どんなものを撮っていたか妙に気になる。スマホ初日は、場所はわかるが何かは失念した。人の集まっている姿が写っている。翌日はサツキ(花)だけ。


 それから延々と続くのは食べ物の写真だ。そういえば退職記念(笑)に「羽後のたべびと」と名づけて、食の記録でも残そうかと新ブログを立ち上げたっけ。挙げるネタには尽きなかったが、誰だったか「ある意味、フードエロだね」と発したことに妙に納得して、エロは控え目にすることにした。たまにだから面白い。



 5年前の今頃は、還暦厄払いの後厄で横浜に出向いている。その写真も懐かしい。帰ってすぐにまた東京へ出かけている。「ほぼ日」のイベントがあり東京ドームで巨人戦を観ている。試合後、グラウンドに下りて記念写真を撮ったり…、もう何か「今は昔…」の感。こういう「非日常」を入れ込めない日常が続いている。


 ブログやら日記やら残してはいるが、なかなか頻繁にプルはしない。こうしたプッシュ型のお知らせも時にはいいか。Fbのように頻繁だとまたかと感じるが、按配がいいと心に残る。ふと想う。この「今」もある意味で次に向かうためのしゃがみ込みと考えられるし、何年か後には懐かしいお知らせとして届くだろうか。

「幸」すむ「山」の「方」へ

2021年06月08日 | 雑記帳
 「幸」すむという山のあなたの「方」を目指して、車を走らせてみました。



 ダムの建設のことはもちろん知っていましたが、実際にみてみると壮観でありました。



 休日だったので、いくらか他にも立ち寄る人がいました。
 しかし、県外との往来が憚られる今は混雑するというわけではありません。



 バイクツーリングの人たちともすれ違ったりしました。
 
 県境でもあるので、当然県外ナンバーもいるようです。
 こちらも、じゃあちょっとと思い境は越えましたが、(様子はわかっているし)数百メートルもいかず、もちろん車も降りず引き返しました。

 この感染禍で県内のなかなか予約の取りにくかった宿が取れるのは、ある面でラッキーでしょう。
 また、県民の利用はお得なばかりか、施設にとって大事なことです。



 そう思って、絶景の露天風呂に3回(!)入ってきました。


 
 立ち寄ったやお店の人も「Y県の人ダチ、あまり来にゃがら、タケノコはまだいっぱい取れるど」と言っていました。

 夏山シーズンはこれからが盛り。そこそこ賑わってくれるといいと願っています。
 

避難読書のはてに「幸」住む

2021年06月07日 | 読書
 いつもそうだとは思いながら、最近報道されているアレコレには、ずっと首がが傾いだままだったり、腹立たしさが治まらなかったりする。こんな時は風呂場読書が一番と思い、古本屋で手当たり次第にカゴにいれて読み出す。ところが避難したつもりでも簡単に入れてもらえず、玄関先で覗いた感じで欲求不満だ。



『ことばの食卓』(武田百合子 ちくま文庫)

 名前ぐらいは知っている作家。昭和それも戦前戦後の風景を「食」とそれに関わる日常や世相など綴っている。TVでこうした時代のことを観てはいるが、どこかぴんとこない。作家に想像力が必要なのは自明だが、もう一つ観察力があるなあとつくづく思う。そのマッチングによって、文章が紡ぎ出されているという印象を持つ。しかし、これを受けとめる読者側にある程度の素養がないと、なかなか入らないと痛感した。食のことなら、と思ったのだが「文化」の落差が大きかったか。



『読まずに死ねない 世界の名詩50編』(小沢章友  ジッピコンパクト新書)

 「~~(せず)に死ねない」というのは、PRのための常套句になったのか。「~食べずに死ねない」「~見ずに死ねない」…「○○しないとは人生の半分を損しているよ」という言い草もその類か。自分では使っても、他人から言われるとムッとしてしまう気もする。「世界の名詩」かあ。少しはかじってみたいと手にした。



 表紙カバーもおしゃれだし、少し心が安らぐかと思ったけれど、正直つまらなかった。50名の詩人等の作品が載せられている。詩はほとんど初見だ。一番有名なのはカール・ブッセの「山の彼方」だと思うが、その訳も散文調になっていて魅力を感じなかった。逆に、我々が学んだあの訳詞のよさをつくづく感じた。


 その意味で上田敏訳の素晴らしさを認識できたという点で価値のあった読書だったか(笑)。

山のあなたの 空遠く
「幸」住むと 人のいふ
噫われひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたに なほ遠く
「幸」住むと 人のいふ


ドックで読書2021

2021年06月05日 | 読書
 「ドックで読書」と題付けたら、以前も同じように書いたはず、と検索してみた。9年前だ。なんと3日続けての読書メモだった。現職終盤の選書傾向がわかる。

 ドックで読書 その1
 ドックで読書 その2
 ドックで読書 最後

 もちろん、今は今なりで…。


『知の仕事術』(池澤夏樹 インターナショナル新書)

 ドック入りする前に開き始めた一冊。この国屈指の「知の巨人」と呼んでもいい著者が、自らの「知のノウハウ」を公開した。「新聞の活用」に始まり、「デジタル時代のツールとガジェット」に至るまで、今まである意味「企業秘密」にしてきた「製造過程」を明らかにした。この齢では到底真似しきれないが、どこまでも貪欲に「知」へ向かう姿勢は刺激的だ。「読書はストックではなくフロー」だと言い切れる覚悟は、「知」に対する尊厳の証しにも思える。問い続けるのは、何のために…だけなのである。


『きれいの手口』(内館牧子 潮新書)

 ひっかかりを持たせた書名「きれい手口」ではなく「きれいになる手口」もしくは「きれいでいるための手口」ということだろう。副題が「秋田美人と京美人の『美薬』」で、雑誌の連載だったらしい。しかし25項目をこのテーマではきつくないか。著者独特の友人ネタや読書ネタを駆使して組み立てている印象で、まあ誌面で軽く読むには適当という程度か。ただ、京都と秋田の女性の気質を比べた語が紹介されていて興味深い。京都は有名な「イケズ」。そして我が秋田は「ハラツエ」だ。これは地元でないと理解できないニュアンスを持つ。


『赤ずきん』他、(フェリシモ出版)



 この小型本は、絵本と言えるのだろうが、読者対象をどこに置いたのか、非常に興味深かった。通常なら子ども相手に、持ち運びできるサイズの絵本と思うが、中味が…。「赤ずきん」は童話のそれとは違うし、「ねずみじょうど」も展開は似ているが、ちょっとグロテスク。「ふたりでひとり」は上方落語で、これは原作に近いような感じもする。しかし「赤いくつ」も「王子さまの~」もかなり大人向けのように感じる。病院の「患者文庫」に並んでいたが、童話の棚に紛れ込ませたのは、どんな感覚の持ち主か。ちょっとホラーでもある。