すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

タネルをたねたら

2018年11月19日 | 雑記帳
 夕方のローカルニュースに、秋田弁を使った川柳コーナーがあり、そこでお題として出された「たねる」を聴いて、夫婦で「懐かしい!」と思わず声を揃えた。もう20年ぐらいは使ってないのではないか。意味は「探す」ということだ。日常的動作で頻度が落ちた訳ではないだろうが、あっと言う間に使われなくなった。


 調べはいつもの『秋田のことば』(県教委編・無明舎出版)から。ところが見出し語として「たねる」及びそれに発音の似ている語はなかった。意味の「探す」から逆に引いていくと「ただす」とある。これは「糺す」のようで「はっきりさせる」意味合いが強い。地域分布には該当するが、そんな言い方をしたことはない。



 他の冊子をあたってみると『東由利の方言』には見出しとしてあり「探す」と記されている。それ以外にはなかった。念のため電子辞書で引くが、残念ながら見出しはない。ネット検索をしてみる。なんと、仙台弁として載っていた。さらに見ていくと「訊く」意味として結構広い地域に分布していることがわかった。


 「訊く」→「尋ねる」ということらしい。昔の使い方を思い出してみると「タネデ歩イデ」と言ったことも多いから、尋ねる(タズネル)からの変化なのだろう。大阪弁として「たずねる→たんねる→たねる」が普通だと書いている人もいた。「たんねる」ねえ…と辞書を引いたら、確かに大辞典には【尋】としてある。


 「探す」は今も昔も変わらないが、「尋ねる」つまり「捜し、探し求める・問いただす」は、少し以前と比べ弱くなっているのか。便利な道具が出来て苦労しなくなったし、パッと答えの出るものが好まれる世の中でもあるし。「たねる」心が薄くなったから、その言葉遣いも消えかかるという、いつもの解釈に収まるか。

狭い間口が守る価値

2018年11月18日 | 雑記帳
 松島からは、山形市を経由して帰る計画をしていた。目的はただ一つ、あるお菓子を買うこと。Y家のF豆である(イニシャルにした意味はあまりないが。まあ知っている人は多いはず)。電話注文はできると言うが、他に販売する場所は展開せず、その本店でしか手に入らない逸品だ。



 このF豆は、よく義姉が山形市に所用が出かけたとき買ってきてくれて、その味にハマった。当時は駅でも売っていたがいつからか撤退した。十年くらい前に会議で山形へ出張したとき、帰る間際になってタクシーで店を探し、数箱買い求めて、急いで駅まで戻ったことを思い出す。


 それほどしっくり自分の味覚に合う、このY家のF豆。売っている本店の店舗は山形市の繁華街にあるが、歩いていると見過ごしてしまいそうな細い店構えである。間口は一間半か。そこに店員さんが数人居り、売り子をしている人の奥で、盛んに豆を袋詰めしている様子が見える。


 休日には午前中で売り切れも多いらしい。それでも販売を拡大しようとしないのは訳があるはずだ。詮索するより、その商いの仕方を応援したい。「そこでしか買えない」価値は、その訳をしっかり持つことによって成立する。きっとその美味を守ることにつながっているに違いない。

立った場所は同じでも…

2018年11月17日 | 雑記帳
 松島を訪れた。3年半ぶりになる。退職前には10年以上毎年、仙台・松島方面の修学旅行引率だった(ただし2011年は松島地域だけ除いた)。そう思うと、どこか新鮮な気持ちで眺めることができた。もちろん風景は目に残っているが、いつも子供の姿と共にあったということだ。


 連れと一緒に歩いていて「そこっ、はみ出さないで歩け」「早く横断して!」とか、いつも言っていたなと笑い合った。平日にも関わらず観光客が目立ち、賑わっていた。一層整備が進み、特に瑞巌寺は覚悟していたとはいえ参道樹木が伐採され姿を変えていて、少し寂しさを感じた。



 お目当ては瑞巌寺横の円通院の紅葉である。盛んに宣伝しているのはライトアップだが、人混みは苦手だし…昼下がりの時間帯をねらった。京都を訪れた時、紅葉は落葉も含めて観るものだと知ったが、ここもまさしくその通りで、コンパクトながら風情の感じる景色が拡がっていた。


 海岸ではなく高台にあるホテルに泊まる。何度足を運んでも縁のない場所だったので、違う方向からの見晴らしがまた良かった。仙石線と東北本線の二つのレールが見下ろせ、時々短い汽笛を鳴らして通過するのも趣があった。翌朝の天気も恵まれ、まさに黎明の松島を堪能できた。



 予定にはなかったが、隣の塩釜市へ。魚市場を目指した。ここは一度も訪れたことがない。随分と広く見応えがあった。そう言えば…と思い出した。自分が6年生の旅行コースに塩釜の魚市場があったこと。朝早く出かけた記憶…建物は違うがこの場所なのか…、なんと半世紀前か。

落穂みたいな落ちメモ拾い

2018年11月16日 | 雑記帳
 来年のカレンダーや手帳が店頭に並び始めてずいぶん経つ。そろそろかなといくつか購入し、実際あまり活用も出来ないのだが入替など始めた。ついでにすぐ山積みになる机周りのメモなども廃棄しようと手を掛けた。汚いメモ書きに目を落とすのは、落穂ひろいのようで少し楽しい。



 3月末に、藻谷浩介氏が来町したときのメモに「学力日本一 生きる力を・・」と書いてあった。本県の結果を少し皮肉めいて話したように記憶している。その下部にこんなふうにメモを囲んであった。

 仕事はチームでやるものです。
 試験は一人でやるからね。

 なるほど。つくづくテストで測れることの限界を考える。


 盆踊りのときに、街の風景を撮るイベントがあり、その事前学習でカメラマンの方にお話を聞いたときに、なぐり書きしたメモがあった。
「シズル感をどううつす」…ご承知のように「しずる」とは「食べ物の味わいを想起させる」こと。そのための二つのポイントを記していた。

 ・油をたす
 ・はしで持ち上げる


 演出の重要さを具体的に感じさせてくれる。


 そういえば、写真のことで…と思い出したのが、9月下旬の鎌鼬芸術祭のこと。「東北の写真学」というシンポジウムのことも、ビデオをとりながらメモ書きしたはず、と探してみた。
 「いい写真とは何か」といった話をしている時だったと記憶している。
 こんなふうにメモしてある。

 全身で撮った写真
 場面と写真が感応している。からだが一緒に動いている。


 動的に撮る極意はそこにある。これは修業の必要なことか。

柔らかすぎていいのかと叫ぶ日

2018年11月14日 | 雑記帳
 語呂合わせにもほどがある。そもそも「〇〇の日」は数字の読み方に掛けた語呂合わせが多いが、今日はさすがに…11月14日「いい石の日」。あまりにそのままなので、だったら11月は毎日「いい〇〇の日」になりそうだ。ただ、「石」にはずいぶんお世話になったことを思い出した。



 中学校で講師を務めたとき、詩の授業で比喩を教える時に「石」を用いた。全くの我流で「石の心」という言葉を出し、いろいろとイメージできることを発表させたりして、直喩、隠喩など知ったかぶりして教えたことを記憶している。無謀にも学級の詩集づくりに挑戦したりした。


 それから30年近く過ぎ、同じ地区の小学校に勤め、廃校になる年に、その記念事業で群読用の詩を作った。題名が「ヒカルイシ二ナレ」。古びた木造校舎と取り囲む光景を詠ったものだった。シンボルであった大きな石、宝石のような思い出、そして未来への意志…を込めたつもりだ。


 国語辞典を使った実践を数年続けた時に、誰でも知っている語をクイズにするのは、教材としても面白かった。「石」は説明用に使う定番の一つだ。わかりにくい意味からヒントとして出していく。例えば、石は「内臓にできるかたい物質」「ライターの発火用合金」「碁石」の順で…。


 辞書を読むと、石には「固いもの、無情なもの、融通のきかないもの、などを、比喩的に表す語」との意味がある。それをもとに「いい石の日」の独自の解釈を試みれば「世の中、そんなに柔らかすぎていいのかと叫ぶ日」である。意固地もたまにはいいだろう。こじつけが過ぎるか。

すべては概念の使いこなし

2018年11月13日 | 読書
 思い立って書棚からデザイン関係の本を2冊取り出してみた。と言っても現在活躍するデザイナーは、総合的なプロデューサーや地域起こしの仕掛人のような役割を担っている。教育分野でもデザイン的思考が拡がって十数年経つだろうか。今改めて読み直すと、前とは違った観点がある自分に気づく。それも貴重だ。



2018読了106
 『佐藤可士和の新しいルールづくり』(聞き手・齋藤孝 筑摩書房)


 そもそも「ルールをつくる」という発想が、多くの日本人には希薄だった。ルールは誰か上の人が作り、自分たちはそれを守っていく…長くその思考に染まった歩みが全て誤りとは言えないが、社会変化は確実にそれを許さなくなっている。生き方、在り方は自分の「ルールを描く」ことから始まると教えてくれる。


 「新しいルール」をつくれるようになるためには「概念を完全に使いこなす」ことが必要と佐藤可士和は言う。聞き手の齋藤は、その本質を分析し、様々な言葉で言い換えながら提示していく。今回特に染み入ったのは、「自分のスタイル」ということ。自分なりの「ずれ(変形作用)」の一貫性を意識することが重要だ。



2018読了107
 『梅原デザインはまっすぐだ!』(梅原真・原研哉 はとり文庫)


 梅原真が地元高知県の次に手掛けたのが、本県秋田である。県のスーパーバイザーになったのが2010年。「あきたびじょん」の提案者である。それから8年…秋田県にそのコンセプトは浸透しただろうか。梅原独特の姿勢で殺し文句の「アカンヤンカ」を、もう一度強くぶつけてほしい気持ちになった。「アカン」の感性を研ぎ澄ます必要がある。


 対談者の原とともに強調しているのは、「ローカルを盛り上げることが大切」また「日本自体がローカル」だということ。そのローカルにある「本当をさがす」ことが個性を生かすための原点である。そう考えていくと、佐藤可士和のいう「概念を使う」ことと強く結びつく気がする。地域おこしという概念を理解し、共有し、働きかける筋道だ。

モノとの幸せな関係

2018年11月12日 | 読書
 「スキャナー 記憶のカケラをよむ男」は一昨年の映画。あまり話題にはならなかったが、脚本家の古沢良太が書いていたので手にとってみた。しかし小説としてはさほど…という評価で、映画そのものをみたい気がする。古沢は最近ちょっと冴えないので、ドラマ『外事警察』のような渋い作品を期待しているが…。



2018読了105
 『小説版 スキャナー』(古沢良太  集英社文庫)



 ある女教師の失踪、そしてそれが連続殺人事件と重なっていく。登場する売れなくなった漫才師が持つ「スキャニング」つまり物や場所に残った記憶や感情(残留思考)を読み取る能力によって、解決に向かうストーリーである。二転三転のある展開で、演出の仕方によってはずいぶん楽しめると思った。スキャン(走査)そのものが映像的だ。


 それにしても、物や場所に人の思いが残るという想像は誰しもするのではないか。例えば長く使った物は、たとえ安価であっても愛着が残るのは普通だし、誰かとの思い出がある品物、風景などはなおさらであろう。科学的には考えられなくとも、あってほしいという願いは自然な感情だ。それが物語化されることは誰でも密かに期待している


 BS12で再放送している『ゴーイングマイホーム』というドラマで、映画撮影に使うためにある民家から古い重箱を借りる場面。その重箱に込められた思いが語られる設定で「大きな神様は信じないけれど、小さな神様は信じている」というような台詞があった。そういう感性を持つ人が多いのがこの国だ。出逢いは人に限定されるものではない。


 そう言えば『ほぼ日』サイトに、糸井重里がある人から「ほぼ日手帳」が様々な会社から真似されている現状について訊かれ、決定的な違いがあると答えていた。それは何かというと、その商品に対する思いだという。願いを持って開発し、意見を集め改良を重ねてきた自負を感じる。作り手だけでなく買い手もそういう意識を持てたら幸せだ。

ナメた真似をする訳

2018年11月11日 | 雑記帳
 一昨日、赤ん坊の舐めることを書いていて、ふとあるセリフを思い出した。「ナメんじゃねえぞ、覚えてやがれ!」「ナメた真似しやがって」という類。実際生活であまり聞く言葉ではないが、昔は映画とかドラマで耳にした記憶がある。何故「舐める」がそんな時に使われるのだろう。



 舐めるのは人が幼いから、また動物の仕草だから、そうした行為が低く見られているのだろうか…と一応予想してみる。日本語大辞典には第一義として「舌先で物にさわる。転じて、比喩的に用いる」とあり、その「比喩的」にあたるのか、と次を見ていくと、あっと思う記述がある。


 大きな項目として「人や物事を軽く見る。あまく見る。馬鹿にする。みくびる」と出ているのではないか。しかも(「無礼」の字をあてても用いられる)とあった。見出しとしても「なめ【無礼】」「なめし」が広辞苑にもある。初めて知った。日本語をナメテいたわけではないけれど。


 それにしても「なめる」という語は結構範囲が広い。明鏡国語辞典の②(多く「~ように」の形で、比喩的に)の説明が面白い。「少しずつ味わいながら飲む」「子供などを溺愛する」「火が燃え広がる」「残るくまなく覆いつくす」…これらは舌先の動きなどからの連想になっている。


 幼い子の舐めるに戻れば、人間も動物だと痛感した思い出がある。上の娘が三歳になった頃、顔を舐めまくられた事がある。母親が入院し、私も出張で二日ほど実家に預け、帰宅した時だ。見知らぬ人にだったらまさに「無礼」な行為だが、親へ向けてあれほどの求愛表現は他にない。

菓子史上最大の発明

2018年11月10日 | 雑記帳
 「まんじゅう」を「万寿」としている某店が本町にはある。縁起のいい当て字にしたものである。もちろん正確には「饅頭」。まあ、ほとんどの人はひらがなを使っている。しかし、この二文字の熟語を見るとなかなかに考えさせられるし、また疑問もわいてくる。調べミニメモです。


道の駅うごの第二回まんじゅう博覧会で、久々にお目にかかった10円まんじゅう)


 まず「」という字。「食+曼」であり、曼が「上にまるくかぶさる」の意味を持つので、「小麦粉・そば粉などを練って皮とし、中に餡を包んで蒸し上げた菓子」にぴたりと当てはまるだろう。言ってみれば「饅」だけで通じ、「肉まん」「餡まん」は略語だろうが正確に存在を表している。


 「」である。「じゅう」という読み方は、どの辞書にも「唐音」とあり、そもそも漢語で「まんとう」と言うことは知られている。問題なのは、なぜ「頭」が付けられているか。饅頭の形は丸型が多いので、人の頭を模したからか、と考える人は多いだろう。…その通りなのだが…。


 何やら深い訳があるようだ。「語源由来辞典」が一番コンパクトにまとめられていた。川の氾濫を鎮めるために「人間の頭49人分」を供える風習を打ち破るために、天才諸葛孔明があみ出した策だったわけである。偉いぞ!孔明。饅頭には「大地を治める力」があると信じられていた。


 最初の餡は羊や豚肉であり「蛮頭」(ばんとう)と呼ばれていた。徐々に拡がり多様な種類の総称となったが、神聖なものであることは、葬式やお祝い事に利用されていることからも納得できるはず。数えきれないバリエーションを思うと、菓子史上最大の発明と言えるかもしれない。

人は舐めらずにいられない

2018年11月09日 | 雑記帳
 あるバラエティ番組を観ていたら、「温水便座」のシャワーの使用有無について街の声を聞いたコーナーがあり、少し驚いた。使うのが当然と思っていたのに(日本の普及に驚く外国人も多いはず)、「使わない派」も半数近くいるのだ。都会の限定された調査とはいえ、びっくりだ。


 それぞれの「お尻事情」は違うし、湯水の感触が気持ち悪いという人もいて、なるほどと思う。しかしノズルが汚いはずだから…との理由には、そこまで潔癖にならなくてもと思わざるを得ない。その流れから番組は「床を裸足で歩けるか」「鍋をつつけるか」等も話題にしていた。



 「素手で握ったおにぎり」は食べられないといった話題は、以前からよく取り上げられていた。日本人は本当に清潔至上主義に陥っている。かくいう自分もその傾向があることは隠せない。ただ、連日一歳を過ぎたばかりの孫の姿を見ていると、本来はどうなのかとつい考えてしまう。


 誰しも知っているように、赤ん坊は何でもよく舐める。その行動には当然ながら生物としての欲求があり、また物体に対する認識形成だということも知られている。何か気になるものを見つけると、すぐに手にとり、ためらわず舐めようとする。雑菌を口に入れて抗体を作っていく。


 一定の年齢に達するまでそれは続くようだ。それを間近に毎日見せつけられていると、今の私たちの過敏さが異常ではないかと思えてくる。抵抗力のない身体が出来上がるのも、そうした傾向が強くなったから…という言説を否定できない。ではどうするか、とせめて指でも咬むか(笑)。