すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ふりかえれば人はうれしいか

2010年11月05日 | 雑記帳
 隣市で行われた研究会に参加した。
 今回の学習指導要領で重視された「言語活動の充実」が研究の中心である。
 全体指導を務めた、心理学が専門の大学教授の話が興味深かった。

 『「言語活動の充実」に関わる背景概念の確認と課題』と題して語られた中に、「学習の源としての“情動を伴う共有化”」という項目があり、メモによるとこんな言い方をされている。

 人は経験を相手と共有できることがうれしい

 自分の体験、経験を相手に知ってほしい、例えばそれが仮に自慢めいた気持ちだったとしても、やはり他者に伝えたいのは「共有」への願いだろうし、それに対する評価・反応があれば、うれしいことには違いない。
 「見せびらかし」の意味はその通りだなと納得できた。

 さらに続けてこんな言い方をされた。

 知っていることを共有することが大事。思い出を話したりするのは、ふりかえればうれしいからです。
 
 なるほど。そこに共通体験、経験があれば、共有は確実性の高いものとなるし、それをもう一度たどってみることは快感を呼び起こすだろう。

 問題は、それが学習の場、授業という場面でも有効か、という点にある。

 ワークショップ的な学習、構成的エンカウンターなどにおいても、ふりかえりは必須の活動であり、その位置づけはとても重要視されている。
 日常の授業においても「活動の振り返り」「学習の振り返り」ということで、かなり定番化されていると言ってもいいのかもしれない。

 エンカウンターの講座などでは、シェアリングという名で「個人のふりかえり」そして「分かち合い」といった過程を経る。
 この時に重要視されるのは、「気づき」そして「受容」ということだろう。つまり個々が活動を通して気づいたことを話しながら、他者のそれも受け入れ、お互いの認識を広げ、深めるというねらいを持っている。

 それらの活動は人にうれしさを感じさせるか…うーん、確かにそういう面はあるかもしれないが、心にストンと落ちてこないのは何故か。

 きっと、自分が今まで体験してきた活動や講座における「ふりかえり」にうれしさを感じた頻度が多くないからだと思う。これは個人としての人間的欠陥なのだろうか。
 いや、ふりかえりという学習過程に通じていない、学んでいないからではないだろうか。そんな思いもしてくる。

 ここまで書いてふと思い浮かんだ。
 自分は結構「ふりかえり」をしているではないか。講座に同行した方と話し合ったり、打ち上げをするなかで討論めいた話になったり、また個人的にブログなどに書き留めてみたりして…。

 それはうれしいことだ。

 そういううれしさを、制限された時間、空間の中でなかなか感じとれない、表現できないということだけなのだ。

 そんな自分に似た子もいるかもしれないと思う。

 だから、パターン化された振り返りによって育つ力は確かにあるけれど、それにとらわれない多様さも必要だろう。
 言語化が全てではないことを踏まえないと、言語活動は痩せたものになるのではないか、と強引にまとめておこう。

渓谷は今…

2010年11月04日 | 読書
 『さよなら渓谷』(吉田修一 新潮社) 

 ずっと読みたいと頭の隅っこで思っていた本だ。なかなか文庫化されないので、古本屋で半値で出ていたので購入した。

 読み始めて、ああこれは…とすぐ思い浮かんだのは、かつて本県で起きた母親による幼児殺害事件。
 テレビで連日のように報道された。まだ真相が究明されないときだったが、その女児が通っていた学校の校長先生と隣り合わせて様々な対応について話を聞かせてもらったこともある。
 母親逮捕を修学旅行先のホテルで聞いたことは、今でも覚えている。
 あのセンセーショナルな事件と設定が似ているな、と感じた。

 ちょっと調べたら、やはり著者自身がそれをきっかけにしているという文章を書いていたこともわかった。
 もちろん小説のテーマや本筋はそれとは別にあるのだが、実際の事件が持ったイメージは結構大きく作品の雰囲気を作っているように思う。

 この物語に登場する男女は、とてつもない不幸な出会いをするわけだが、事件として世間に知られるような出会いとは、結局その不幸が連鎖していく、拡大していくことは否めない。
 その現実に対して多くの者は無力であり、ひたすらにそういう不幸に出会わないことを、意識するしないにかかわらず願って暮らしていると言ってもいいだろう。

 不幸の連鎖に陥ったときに人は何を手がかりに生き抜いていこうとするのか…「私たちは幸せになろうと思って、一緒にいるんじゃない」とつぶやく心底は、なかなか想像できるものではない。

 しかし、小説のなかにあるような苦しみや嘆きは、現実にも確かにあると、時々思い出させてくれるのがこの著者の真骨頂だろう。

 「さよなら渓谷」というちょっと変わった?タイトルは、主人公たちの住む場所の近くに渓谷を配した設定から来るわけだが、場所の持つ閉塞感を上手く表している。

 そこに「さよなら」を告げる終末、そうあればいいねと素直に声をかけたくなった。


 ところで、実際の渓谷は今、深まる秋である。
 職場で県内の有名な渓谷に出かけてきた。

 気まぐれに続けている写真ブログに、その風景をアップしてみた。
よろしかったら、こちらへ。
 http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-34f7.html

師弟関係の正常化

2010年11月03日 | 読書
 『学力は1年で伸びる!』(江澤正思 陰山英男  朝日新聞社)

 山口県山陽小野田市の全小学校において取り組まれた「学力向上・生活改善」のプロジェクトである。
 教育長である江澤氏が自らの考え方を示し、プロジェクトの経緯やデータ結果についてその成果を説明している。いくつかの項目ごとに陰山氏が解説を加えているという構成となっているが、まあ陰山氏の部分はその多くの著書に書かれていることであり、新味があるわけではない。(本の売れ行きには貢献したのかなという穿った見方はできるけど)

 もちろん、市の取り組みにおいては重要な指導者であったし、モジュール学習等の進め方については実に大きな役割を担ったことがわかる。また、計画を始める時期に関して強引なまでのアドバイスはやはり陰山氏ならではなかったか、と思える。

 しかし、この本の一番説得力があるのは、やはり大学教員であったそして地元の寺院の住職でもある江澤氏が教育長に就任し、筋道を立てながら全市を牽引していった部分であり、リーダーとしての矜持を強く感じる。

 いくつか、自分にとっては新鮮に感じる言葉があった。
 短時間に単純なことを繰り返すモジュール授業の指導だからこそ、教師と子どもの信頼関係が育つという。

 これを私は、師弟関係の正常化と呼んでいます。または、師弟関係の初期化とも言えるかもしれません。
 
 さらにモジュールを「師弟の位置関係の訓練」ととらえた発想は、頷かせる。
 訓練とは子供に対して意味を持つということだけでなく、教師にとってもその場が訓練となる。そうした単純な繰り返しの中で子供を見る目を鍛える、見とりと手当をしていく、そういう場で出来なくてどうして他で出来るものか…。

 他には、モジュール授業がどういった学力を伸ばすのか、という面の分析も興味深かった。ともすれば全国学力テストへの対策?という形で組み立てられる計画とはまた一味違う、子供たちにどんな力が必要で、どうしたらそれが身につけられるか、を自分の頭で考え、実践していった本と言えるだろう。

 大事なのは、いつもそこではないかと思う。

大好きな季節が終わって

2010年11月01日 | 雑記帳
 先々週に出した学校報にも書いたのだが、学校のこの時期が一年間で一番好きだ。

 学習発表会に向けて、それぞれの教室から声が聞こえてくる毎日。
 発表に使う道具類や準備の物が校内のあちこちにあったりする。揃わなかったり、はみ出したりしている物もあるが、そのほどよい雑然さのある風景がまたいい。

 他の行事や活動以上に、学級や学年で一体感を持って取り組めるのがこの発表会と言えるだろう。
 学芸会、学芸発表会、学習発表会…その名前は時代や勤務地によって変遷してきたが、自分が向き合ってきた姿勢はいつも同じであった気がする。

 子どもは表現する者だし、そこに何かしらの価値をぶつけて表現をより高くし、他者に伝えること。同じ空間で過ごす者とともに作り上げる過程を通して、共鳴しあう感覚を体験させること。
 ちょっと気取って文章化すれば、そんなところだろうか。

 担任から離れた頃は、ああ自分の学級でやりたいという思いはかなり強かったが、徐々にダウンしていくのは仕方ない。
 それでもどこかでかかわり合いたくて、シナリオつくりを手伝ったこともあった。全校用群読を提示したこともあった(今年もそれは出来た)。
 きっと何かしらの形でそこに加わっていたい、という気持ちは、自分がこの仕事を選んだ一つの理由かもしれない。

 さて、今年は練習時からずいぶんと写真を撮った。昨年は新型インフルエンザ騒ぎの渦中だったので控えたが、その分ずいぶんと今年は欲張ったように思う。

 →学校ブログ

 その連載もあと少しで終了。ちょっと寂しさを感じている。