すぷりんぐぶろぐ

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無知と選挙

2009年04月12日 | 雑記帳
 植民地解放闘争の理論家であるフランツ・ファロンは次のように指摘したという。

 無知というのは、知識がないことを意味しない。(中略)そうではなくて、無知というのは、疑問が発せられなくなった状態を指す。

 「はてな」を大事にするというような形で疑問を持つことの重要性を強調しているように見える学校教育だが、それとはまた違う観点で社会への適応性も求められていて、この按配がなかなか難しい…などと考えていて、脈絡もなく今日の選挙のことが頭をよぎる。

 この頃の疑問は、公約の中にある「首長の給料○%カット」である。
 これはいったいどういう意味を持つものだろう。
 
 一見すれば、「ああ自ら貰うお金まで削って頑張ろうとしているのか」という高潔、清廉な印象を与える訳だが、それだけをねらっているわけではあるまい。
 公費節減の一環として、その象徴的な意味合いを持たせている。つまりは全体としての人件費削減に向かうスタートではないか。では何故それを最初に強調しないか。これは一つの集票戦略か、と思う。

 それにしても自らの経済的な価値?を下げることを公約にすることは、はたしていいことなのか。私たちはそんなリーダーを求めているのか、という気もしてくる。
 プロスポーツの一流選手と比べることが妥当かどうかわからないが、首長の果たす役割がそれらより劣るとはけして思わない。給料・報酬のことを問題にして投票が左右されるとすれば、ちょっと情けない感じがする。

 まあこういう考え方自体が経済主義に毒されていることなのかもしれない、と思いながら、今日も投票にいく。

「昭和の短縮形」はスターのこと?

2009年04月10日 | 雑記帳
 お気に入りの歌人、穂村弘が、こんな言葉を使った。

 昭和の短縮形

 最近(いつからの頃からか、の方が正確だろうか)、「レスカひとつ」などと注文したら、聞きかえされるか、大笑いされるかのどちらかである、その程度はわかっているつもりだ。
 レモンスカッシュを最初にレスカと言ったとき、何か街の人になったような気もしたものだが、今ではとんだ世間知らずというべきか。どんどん置いていかれるような気がする。

 穂村は、レスカどころでなく、「チョコ」も「ビスケ」も、「プラモ」もそれに当てはまると例示している。それ以上に何があるかはわからないが、この三つに限れば、後半部省略の言葉が該当するわけだ。他に何かあったけか。

 「スト」「ティーン」「ヘリ」などが浮かぶ。使うときもあるにはあるが確かに以前ほどではない。なぜそうか、単純に考えると、その言葉を使う頻度が落ちたということになるだろうか。

 流行っていたり、生活に必須で口にしたりする率が高い言葉だったら、短縮して用いる(登録しているイメージか)のは自然の成り行きだ。その言葉の意味する集合があまり意味を持たなくなったり、ぐっと使用頻度が落ちたりした場合は、正式名称であったとしても差し支えないということか。思いついた三つの言葉もたしかに何かに当てはまりそうだ。

 そう考えると「チョコ」が世間一般のなかで生き残るのはちょっと難しいかもしれない。ただカカオ好き家族や場末のスナックなどにはしぶとく姿を見せてくれるだろう。まさに昭和の味わいか。

 そういえば、以前ほど「名前の省略」(キムタクのような)も目立たない気がするが、これは衆目一致のスター不在ということか。

声日記事始

2009年04月09日 | 雑記帳
 花粉のせいもあり、寝床でぼんやりしている時に、ふと言葉が頭の中に浮かんできた。

 声日記

 単語同士のくっつけ方としてはどうかと思うが、なぜか頭に残るネーミング。このネーミングが出てきたおかげで、今年も校内報的な駄文を書こうと思いたってしまった(?)。

 「声を鍛える学校」…そんなイメージで今年一年の経営を考えていきたいと初日に話した。では、自分では何ができるか。具体的な指導について、というより直接する担当する職員の意識づけの方がより肝心だろう。
 とすれば、子どもたち全体に話す機会や職員研修の場を最大限に活用することになっていく。しかし、それだけでは不十分。やはりここは継続的な活動がほしい。そうなっていくとおのずと通信の形で情報提供ということか。
 まあ一番妥当で、自分にとってもやりやすい分野だと思う。

 それにしても、ネーミングである。

 声日記

 かなり徒然の印象を与えるが、内容もそうしたものになっていくといいなと秘かに思う。
 いわば、研究実践が進んでいくなかの香辛料的な存在。それがあったので、味が引き締まったとか、コクがでたとかね…。そんな話題を拾い上げるためには、まず校内を歩き、校外を歩き、子どもと喋り…もちろん本も読み、ということになるだろう。
 年度初めの式関係が終わったが、今後かえって対外的なことが忙しくなりそうなので、一つ決意表明として残しておく。

 ちなみに第一号に書いたのは、新任式の校歌がよかったこと、子どもとの窓越しの会話、この二つだった。

飛翔体の件、私的メモ

2009年04月07日 | 雑記帳
 いったいこの騒動は何だったのか、新聞等にも様々な分析が載せられている。
 一番連呼された県「秋田」に住む者としては、自分もまた少し巻き込まれた感があるが、どうしていることが冷静なのか、考える余裕がなかったことが一番の不安要素である。

 それはさておき、私的に印象的なことを書き残しておくと、次の三点になろうか。

 まずは「まもなく」ということである。
 「まもなく」に該当する朝鮮語のニュアンスはわからないので当然だろうが、改めて「まもなく」が示す範囲を考えさせられる。辞典では「すぐに。ほどなく」という意味が強いはずだが、広辞苑には「ほどなく。やがて」と載っていることもあり、日本語としても結構範囲が広いものだと思う。
 今までの使い方をふりかえると、対象となる期間が長い場合は「まもなく」も幅のある使い方をするようだ。例えば「まもなく冬がやってくるね」などのように。
 しかし今回のように、期間が限定的である場合はそんな使い方はしないのが一般的であるし、戸惑うのは当然だろう。かといって、誤情報の理由にはならないと思うが。

 情報のこともそうだし、武器運搬車の進路間違いによる物損事故など、初歩的とも言えるミスの連発に不安を覚えたことが二つ目。

 そして、飛翔体が発射された後のテレビ報道を聞きながら思ったこと。アナウンサーの口調である。同時間帯に、民放2局とNHKがやっていたが、その原稿の読み方には改めて違いを感じた。
 民放の早口、感情を込めたような緊迫感あふれる口調に比べ、NHKは落ち着いていた。アナウンサー個人の問題とは言えない気がする。うがった見方をすれば、民放にはそうした煽る技法が身についている。反面、NHKは非常時?の場合も淡々と話すことが訓練づけられている(NHKよりの見方のよう気もするが)。

 こういう騒動めいたときに、いろいろと観察しておくことが、本当の非常時に冷静でいられるコツかもしれない、そんなことを思う。

パソコンは悪女?

2009年04月05日 | 雑記帳
 雑誌好きなので、パソコン関係の月刊誌なども結構買っている。
 定期購読はしなかったが、「YOMIURI PC」は多く読んだと思う。様々ある雑誌のなかではかなり読みやすかったので、手にとる率が高かったが、今月で休刊(廃刊?)だという。
 ちょっと残念である。しかし、こういった雑誌の役目がある程度終わったことは確かだろう。

 誌面の中で、時代小説家の山本一力が連載しているコーナーもあり、作家のPCの使い方という面では興味深かった。最終号ではインタビューに答えながら総括的なことを語っている。

 パソコンに望むのは進化より信頼性

 なるほど。ウィンドウズ95時代に比べれば、その進化は凄まじいものがあるが、信頼性という部分ではまだまだ例えば他の家電とは差があることは確かだ。
 現在、私も三つのPCを使っているが、トラブルめいたことがなかったかと言えば、どれもあった。再起動をかけた経験のないPCがない。予定が狂った一日を思い出すこともある。

 生活の一部に必要なのは、確実に動く、計算できる道具である。いくら機能が充実、進化しても危険な要素があるのなら手を出しにくい。
 ところが、作家らしい一言があり、これも妙に納得させられる。

 パソコンは悪女だと思って付き合えばいい。

 なかなか飼いならせないけれど、上手な付き合い方が出きれば、魅力的ってことですか。

論理的な人になるポイント2

2009年04月03日 | 読書
 「論理の歩幅を考える」ことがポイントとなる縦の論理に加え、もう一つのスキルは「横の論理」である。このポイントは次のことだという。

 相手と「目線の位置」をあわせる
 
 つまり、横方向の広がりを持って説明、説得できているかということであろう。このために必要なのは、リサーチする力、そして想像力か。

 学校という職場であれば、まず子どもたちの様子をつぶさに見る必要がある。担当者がそれぞれの立場で、その言動をとらえているのか、どう思って接しているのか、そうした点に気を配っていくことだと思う。
 しかし、ある程度のパターン化はあるはずであり、それを見抜くことも大切になってくるだろう。横の広がりといっても結局まとめることができなければ散漫な印象しか残らない。

 歩幅を考えることも、目線にあわせた具体例を挙げることも、やはり絞り込みは必要だ。基準値としてはよく言われる「3」ぐらいが適当なのだろう。自分でも好きな数字であり、以前はよく使っていたのだが、この頃意識的になっていないことが多い。
 改めて、三つの段階、三つの具体例といった論理の展開をパターンづけてみたい。拡散的な思考と集中的な思考を織り交ぜて集約していく、そのためのフレームを作ろうか、と考えている。

 最後にいつも気にかける事を一つ。

 相手はそれを聞きたいと思っているのか
 
 もし、そうでなければどうやってその気にさせるか、である。

論理的な人になるポイント1

2009年04月02日 | 読書
 新年度。何かと話す機会が多いわけだが、伝わっているのかどうか不安になるときもある。きちんと準備をする、自らの話し方を鍛える、そうしたあたり前のことを意識するのだと改めて思うが、ちょっと流されそうにもなってくる。

 片付け途中の書棚には、様々な雑誌なども散乱しているが、背表紙で面白いなと感じたものを取り上げて読み直すときがある。だから、散乱のままなのだが。

 「論理的な人になる」2スキル・5ステップ

というタイトルが目についた。ぺらぺら読み出すと、なかなかいいことが書いてあり、少し読み込んでしまう。

 論理的か否かは相手に応じて変化する相対的なものであって、絶対的なものではない

 説明や説得をするために、対象となる相手を意識しないわけがないのだが、教職のような閉じられた空間にいると、なんとなくそれぞれが同じ考えを持ち、似たようなレベルであるという錯覚を起こすかもしれない。まして、初めての職場であれば、なおさらだろう。

 2スキルは「縦の論理」「横の論理」と分けられて、まず自分の話を繋いでいくための「縦」で留意するのは次のことだと言う。その程度のチェックを忘れないことが、一つの準備だ。

 論理の歩幅を考える