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啼き続け驚異をさがす

2018年06月15日 | 読書
 そうかあ「共感」だけでは駄目なのかあ。短歌づくりをちょぼちょぼ始めてみたが、どうにもしっくりこない。この文庫を再読し、自分の表現はなんとなく共感だけで作ろうとしていたことに気づかされる。もう一つの「表現の軸」である「驚異」についての認識があまりに不足、そして感覚、体験もあまりにひ弱だ。

2018読了60
 『短歌はじめました』(穂村弘・東直子・沢田康彦  角川ソフィア文庫)



 先月読了した『考える短歌』に続き、再学習シリーズである。おそらく十年以上前に読んでいるが、当時何を読み取っていたが、まったく不明だ。内容は沢田主宰の「猫又」なる短歌会のメンバーの題詠作品を、穂村・東が評価し、寄せられた歌に対して論評しつつ座談をする。自由奔放、才気爆発の楽しい読み物だ。


 もちろん二人の歌人の独特な感性による批評は面白く、また作歌の基本を知る意味でも参考になる。『考える短歌』で俵が強調したことと共通する点も多い。プロだから当然か。それが基礎中の基礎でもあるのだろう。ざあっと振り返ると「助詞の使い方」「動詞の数」「体言止めの効果」「比喩の統一感」「初句の印象」…


 題詠で奇抜なのはやはり「プロレス」か。同人の中にはプロレス雑誌の編集者もいて、内容はかなりマニアックに見えるが、そうでなければ「驚異」に届くのは難しいかなとも思う。穂村・東の二人の選が最高得点だったのはこの歌だ。「道場の長与千種のサンダルは『CHIGUSA』と赤く書かれていたり(春野かわうそ)」


 レスラー長与千種を知らなければ伝わりにくいことは確かだけれど、道場のサンダルに「赤く」その名前に記されている箇所に目をつける感性は、読者に響くのではないか。こんなふうに歌ってみたいものだ。いや、この座談では「歌う」ことを別の動詞に言い換えている。それは「啼く」。おおおっ、これは深いぞ。

 
 「」は、あの漢詩「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く」で有名であり、鳥獣が普通だが人間にも用いる。漢和辞典によると「つぎつぎと声を出して続けてなく」を表している。俳句と較べたときの長さ、そもそも連歌ということもあるし…。そうか、啼き続けねばならないのだ。そうでなければ驚異も見えてこない。

 では、決意の一首を。

 口開けば血反吐でるまで啼くだらう狼男夜更けの散歩

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