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警句を吹き込む「大人」の著

2013年06月17日 | 読書
 『清らかな厭世 言葉を失くした日本人へ』(阿久悠 新潮社)

 著者は「はじめに」をこう締めくくる。

 ぼくら民族の子どもたちは替えられない。とすると虚無の心に警句を吹き込む努力は全大人がすべきである。


 この著は、平成16年4月から亡くなる直前の19年6月まで産経新聞に連載された文章が再構成されている。
 稀代の文筆家の一人といってもいい阿久が、おそらくは余命の少なさを感じつつ、言っておきたいことを書きつけた印象がある。

 最近、これほどページの端を折った本はない。

 新聞連載であるので、政治や事件、世情のことが取り上げられ、そういえばあの時こんなことがあったっけなと多くのことが思い出される。
 しかし、それ以上にそれらの内面、心底をずばりと描いてみせる筆力の凄まじさを感じた。


 例えば、この表現の的確さである。

 この国の失敗は引き算ではなく、マイナスの掛算であるから、持ち点が如何に多い人もマイナス点になってしまう。

 例えば、この比喩が教えてくれる切実な実感である。

 いつの間にか必要以上の酸素を幸福と思うようになり、息苦しくなっているのが現代である。人間は酸素の量を確認するためにも、懐かしい時代を持つ必要がある。

 この教育論が指摘する内容は、今現場で大切にされているだろうかと思う。

 推理とは謎解きだけでなく、迷うことを楽しみに変えることでもある。答えが出ないことに苛立つのではなく、その謎の深さとつきあうことである。この習慣がたぶん子どもたちを救う。



 流行歌の世界に君臨した著者の視線は、多様であり上下左右を行き来しながら、人間の心情にある機微を見事に描いたのだと思う。そうでなければ、あれほど多くのヒット曲を、あれほど広範囲の歌手に提供できるわけがない。

 それを支えたのは「感」をどこまでも失わない覚悟なのかなと、読みながら思った。
 意識しなければ、どうしようもなく「感」が削がれていく現在と未来。
 阿久はずっと前からしっかりと見つめ続けていた。


 さて、野球ファン、高校野球ファンと知られる阿久だが、その時期にワールドカップがあったこともあり、サッカーにも触れている。
 いやはや見る人は見るものだと恐れいった言葉がある。
 どうしても世界に追いつけない日本サッカーがまず自覚すべきは、ここかと思わされた。

 恵まれた環境で「蹴る」で始まったか、恵まれない場所で「運ぶ」でスタートしたかでは、違うスポーツになる気がする。

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