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スタンダード探しに出かけたまえ

2010年10月21日 | 雑記帳
 東北の教員ならば多かれ少なかれ宮沢賢治への興味は持っていると思う。人並みの関心は自分にもある。
 ただ、理解できないことの多さは相変わらずである。一番の理由は自然体験なのかなと大雑把に括っている。
 
 先週『やまなし』を3時間扱ったが、隣の組でも空きの時間があったので、今度は資料『イーハトーブの夢』を使って授業することにした。まあ簡単な賢治紹介ができればいいだろうと考えた。

 教師用の指導書をめくってみたら、その著者である畑山博の「筆者の言葉」が載っていた。
 さすがに賢治研究家として、重みのある文章を書いている。
 こんな一節もなるほどと感じる。

 イーハトーブ童話は、現在や未来の話と同じように、過去の話が多い。人間は、どこまで歴史を戻って、やり直せばいいのか、ということを、はっきりと提示している作品が多いのだ。
 
 そういう視点で読む、感じる…それはまた今の自分の生活を振りかえざるを得ないだろう。
 それは理屈づけるより、自らの体験と重ね合わせられれば、かなり大きなエモーションとなるような気がする。
 しかし、どっこい「書斎派」には手が届かないだろうか。

 畑山氏は、賢治が森の音を聞き分けただろうと推察している。
 賢治の「翻訳者」として能力は他を圧倒するものと言えるが、私たちにもその芽がないわけではない。意識的に森の音を言葉として聞き分けるために体験を増やせばいい。
 そのことについて、こんなふうに文章が結ばれている。

 最も静かで自然な森の音をふだんから観察して知っておく、ということからはじまる。喜びにしろ、悲しみにしろ、森の木たちの言葉というのは、畢竟そのスタンダードとの差なのではないだろうか。
  
 出不精な自分が、唯一とも言っていいほど出かけたくなる春と秋の季節。近くの低山へである。

 わずかな山菜探しに目を皿のようにしていては、駄目か。

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