「止めてほしかった」
昨日の朝のNHKニュースに、あの秋葉原の事件の容疑者加藤が供述した言葉として、大きく映し出された。
なんと悲しい言葉だろう。
被害者に関わりある人でなくても、「ふざけるな」と一蹴してしまいたいと思うが、やはり悲しい。
どんな流れで、どんな調子でその言葉が語られたかは定かではないが、携帯を通してネット上の掲示板に自らの犯行を記したことに関わるのは間違いない。
先週のラジオ番組でかのリリー・フランキーは、こんな言葉を喋っていた。
「誰もが、簡単につながることのできる時代」
物理的表面的にそのことが可能な時代の危うさは、精神的内面的なつながりの希薄さと直結する。
加藤の悲しみの深さを表わしている言葉ではない。
おそらく数多くの若者(だけではないだろうが)が抱える悲しさの叫びだ。
つながっているけど、つながっていない。
「止めてほしかった」
そんな言葉を吐いて、他者を死なせたり傷つけたりする者がいるし、その刃を自分に向けた子もいる。
甘えと一蹴する前に、しなければならないことはあるのではないか。
昨日の朝のNHKニュースに、あの秋葉原の事件の容疑者加藤が供述した言葉として、大きく映し出された。
なんと悲しい言葉だろう。
被害者に関わりある人でなくても、「ふざけるな」と一蹴してしまいたいと思うが、やはり悲しい。
どんな流れで、どんな調子でその言葉が語られたかは定かではないが、携帯を通してネット上の掲示板に自らの犯行を記したことに関わるのは間違いない。
先週のラジオ番組でかのリリー・フランキーは、こんな言葉を喋っていた。
「誰もが、簡単につながることのできる時代」
物理的表面的にそのことが可能な時代の危うさは、精神的内面的なつながりの希薄さと直結する。
加藤の悲しみの深さを表わしている言葉ではない。
おそらく数多くの若者(だけではないだろうが)が抱える悲しさの叫びだ。
つながっているけど、つながっていない。
「止めてほしかった」
そんな言葉を吐いて、他者を死なせたり傷つけたりする者がいるし、その刃を自分に向けた子もいる。
甘えと一蹴する前に、しなければならないことはあるのではないか。
私はこの台詞を聞いた時、イソップ童話かなにかにあった寓話を思い出しました。
それは、ものを盗んだ子どもに対して母親が
「よくやったね」
と褒めたという話です。
それからその少年はどんどん悪さを行い、最後に取り返しのつかないところまでやってしまい、処刑されます。そのときに、
「何か言い残すことはないか?」
と聞かれて、母親に対して
「なぜ最初に叱ってくれなかった」
と伝えてほしいと言って処刑されたと言う話です。
生徒指導を考える時、いつも思い浮かぶのはこの寓話です。
私は「取り返しのつかないところ」までいかないために、何が必要か、どうつながっていくのか、考えています。
人の持つ危うさを自覚することも大切だと思うのですが、余りに明の部分を強調して、闇の部分を隠すような社会の流れに不安を覚えることがあります。
そして自分も片棒を担がされているような気分もして…。
私もこの事件は注視していて、国語の時間に作文の素材としても使ってみました。
池田さんは「最初に」という話をされていますが、私は「最後の最後に」ということを思っていました。最後の掲示板書き込みから実際の凶行に及ぶまでにタイムラグがあり、私はそれを知った瞬間に、この青年は躊躇したのだ、と思いました。
「最後の最後に」、誰か一人でも、彼を止めることができたなら、という思いもあります。
ケータイ掲示板の誰かが「友人」足り得るかどうか、私にははっきりとはわかりませんが、最後に自分を止めてくれる誰かを、持っている人は凶行に及ばない、と私は思います。友達を作るということは、学校の大きな大きな役割の一つではないか、と。
「友達を作るということは、学校の大きな大きな役割の一つではないか」
シンプルだけど、まさしくその通りですね。
私たちの立場からいえば、「友達ができる」授業や活動を目指すべきなのだと思います。
それにしても、ケータイ文化の中でのつながり方はどうあればいいか、難しい。難しい。