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ローカルに生きるために

2018年05月28日 | 雑記帳
 土曜日にあった「みらいの編集室」のイベントで、近隣で店を開いている二人のゲストの話を聞いた。トークセッションの趣旨は、以下の通り。

 ~秋田県南エリアで「郷土食」をテーマに、古き良き豊かなライフスタイルを提案し続けている人気カフェ&料理店。ここを切り盛りするふたりの女性オーナーをトークゲストに迎えて【食 × 編集】をコンセプトに、暮らしを豊かにしてくれる「台所のおはなし」や「ライフスタイル」についてお聞きしていきます~


 面白いと思ったことがいくつかあった。一つは「台所」という視点で、一般的なシステムキッチンは、シンクとコンロの間のスペースが狭いという話が出た。調理をする場所を十分にとらない発想とは一体何か。家族全体での消費から個別消費への移行を促し、推し進めている時代、キッチンの幅はその一つの典型だ。


 世帯の人数さらに食産業のあり方の激しい変化、それらとリンクするように住環境もセットされる事実を今さらながら知った。私たちは、その点を意識しないと、既製品だけに取り囲まれて身動きできなくなる。もう一つ、「麹屋」を営む女将が意外なことを言った。「ここには米しかないから、いい」。逆転の発想だ。


 産業面で稲作に頼ってきた本県秋田について、知事も危機感を正直に吐露したことがあった。しかしまた、違った視点で言えば「米しかない」ことが様々な工夫を生み出し、文化を作りあげてきたことも厳然たる事実である。経済としては、それを売れるようにすることが大切だが、価値はそれだけではないはずだ。


 いわゆる「伝統食」を残すべきかどうか、というテーマも考えさせられた。個人的な嗜好や郷愁的な部分で必要はあるにしろ、文化財的な扱いになっていくのだろうか。伝えられる必然性が私たちの暮らしには希薄になっている。しかしゲストは「残さなくてもいいが…そこに到る知恵のようなことを…」と語った。


 確かに目をつけたいのはそこだ。仮に「伝統食」と称される食べ物を再現することは、その気になれば現在でもたやすくできる。問題は、今住む土地でそこに育つものをより美味しくより長く残さずに食べて、暮らしていくサイクルを意義付け取り戻すということではないか。ローカルに生きる基底に据えたい価値だ。

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