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令和を生きる覚悟として

2019年12月18日 | 読書
 平成という枠組みで時代を語る意味はどこにあるのか。30年間という括りを、個人と重ねてみる作業によって見いだせるのではないか。いつの場合も語ることによって、ほんの少しは自覚的になれる気がする。「ポスト・ヒストリー」そして「小さな肯定」は、今回の振り返りや読書によって得た貴重なキーワードだ。


2019読了106
『街場の平成論』(内田樹編  晶文社)


 平成の始まり、終わりを告げたのは「昭和」だけでなく、ベルリンの壁やソ連の崩壊に象徴される「東西対立」、そして我が国の「経済成長」であることは大方の見方だろう。それらは白井が言うところの「ポスト・ヒストリー」…厳密に定義づけできないが、精神的な意味で進展する歴史は終焉したことを示している。


 歴史の終わりとしての様相は「成熟の拒否」「感情の劣化」という語に象徴され、具体的に挙げられた例が「国民の文芸的リテラシーの崩壊的低下」という点に胸を衝かれた。教育の責任は大きい。象徴天皇の退位によって改元された訳は、その努力に対する敬意であった。そういう感情を日常的に意識化させることが大切だ。


 鷲田が引用した中井久夫の文章「日本では有名な人はたいしたことがない。無名の人が偉いのだ。めだたないところで、勤勉と工夫で日本を支えている」…この「勤勉と工夫」の人に、もし自分たちが当てはまったとしても、そうした者は「矛盾の解決と大問題の処理が苦手」とする。この傾向そのままに平成が進んだ。


 まさしくその通りの30年間だった。政治家と同じように得意げに口にした「バランス感覚」は、「大変動」には通用しないのかもしれない。しかし、もはや繰り言に意味はない。オリンピックに湧くのは結構だけれど、その裏側こそもっとしっかり見なければならない。鷲田は橋本治の今年2月の遺稿を最後に置いていた。

 「『失われたものの数をかぞえる』というのは後ろ向きのことで、我々が考えなければいけないのは、『失われていないもの、残されているものの数をかぞえる』ということではないでしょうか。」

 新しさは常にやってくるが振りまわされず、今までのことの「小さな肯定」に力を注いで、令和を生きたい。


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