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咀嚼してみたい「読解」の言葉

2007年06月24日 | 読書
 『言語技術教育』(明治図書)の第16集を読む。

 「読解力」がテーマである。むろん、PISA調査に基づく読解力の現状から立てられたものである。いつものごとく私にとっては刺激的な論考が並んでいたが、特に目がいったのは井関義久氏(桜美林大名誉教授)の文章である。

 「読む力は『批評力』に極まる」と題した文章は、この問い立てから始まる。

 この際、「読解」という用語をあえて使わないことから始めてみよう。そこからどういうことが見えてくるか。「読解」という用語の中にあったあいまいさがあぶりだされてくるのではないか

 題名といい、手法といい、いかにも分析批評の大家らしいと正直感じた。

 井関氏が「読解」という言葉を使わないために、導き出した言葉は次の四つである。
 小見出しの付け方もなかなか見事である。

「解読力」!  「解釈力」!?  「分析力」!!   「批評力」。
 
 全体の流れを強引にまとめれば、まず解読があり、個々の解釈がなされる、しかしそのためには客観的な分析が必須であり、論理的な批評をすることで完結する…ということになろうか。

 小説『博士の愛した数式』の映画化、舞台化という具体例を引きながら、そこでの表現をもとにした解説はわかりやすかった。

 ぐっと心に残る文章は自分なりに解釈ができているが、まだ自分自身の咀嚼が足りないとも感じている。口に放り込むつもりでここにいくつか書き記しておこう。

 生き方にもいろいろあるように、「解釈力」にもいろいろある。当人の生きる力になるような「解釈力」こそが、求められる力だ。

 文章の表現に目を向けるのだ。内容を読むことは、ほどほどの所で打ち切る。

 「批評」するということは、まず褒めることができるかどうかにかかっている。



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