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夢から醒めることの模索

2018年03月27日 | 読書
Volume99
 ひかりからのぞみへそしてタワーからツリーへ世界は比喩にかわった

 穂村弘が『ちくま』4月号連載「絶叫委員会」の、結びに置いた短歌である。
 毎号読んでいるがこうした形で締めくくるのは頻繁とは言えない。
 しかし、今回は言うなればこの歌の説明として本文が成り立っていた。

 かつて特急や新幹線の名前はスピードを表わすための名称だった。それが「つばめ」であり、「こだま」であり、そして「ひかり」だった。
 そのあたりまではかろうじて、スピードの実体として認識が可能だが、「のぞみ」となればそれは「もはや実体はどこかへ溶けてしまった」。

 電波塔の象徴は「東京タワー」から「スカイツリー」へ。
 「タワー」は塔という意味であるが、「ツリー」は樹である。
 このように「全体として比喩」になっている例は、CMに顕著になっていることは誰しも承知している。



 そして穂村は次の例を挙げている。

 「昭和ひと桁生まれの私の父は洋服を完全に実体として捉えている。すなわち洋服イコール防寒具なのだ。」

 ところが世代が下になるにつれ、その意識は薄れ、「お洒落」という概念が入り、強まってくる。

 「防寒という用途の明確さに対して、お洒落は捉えどころがない。社会的には、この捉えどころのなさこそがポイントなのだろう。実体をイメージに変換することで、人の心に働きかける強度が増すのだ。」

 イメージ化が人の「欲望を無限に肥大化させる」。
 それが、今の経済を動かす正体となっている。

 世界を比喩で覆ってしまおうとしているのは、何も芸術家やCMクリエーターなどばかりではない。
 政治家も、比喩的な言い回しを多用し、見てきたようなイメージを作りあげようとしているではないか。
 あの大きな国家の大統領や元首たちも半島の太った大将も、その目に民衆の実体を捉えているか、と言いたくなる。

 穂村はこう結んで、冒頭の短歌を置いた。
 
 「その結果、ほとんどの実体は溶けてゆく。最後に残る実体とは死。これだけはまだ避けられない。我々はその直前までイメージや比喩の夢の中にいるのだろう。」

 強がりになるが、穂村のこれらの思いを、言葉からのアプローチ、都市生活者としての視点なのだと踏まえたい。

 私たちは、それぞれの立ち位置から「夢から醒めることの模索」を、大事な日課としよう。

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