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授業を見抜く三つの原則

2011年02月23日 | 読書
 名古屋への行き帰りに読もうと一冊の新書と、まだ手をつけられなかったこの本を持っていった。

 『大西流 授業の見方』(大西貞憲・玉置崇 PLANEXUS)

 ある程度は「授業を見る」ことは出来ると自負していたが、いやいやこの本は読みどころ満載だった。
 「さすがプロ」と感じた箇所がいくつかある。
 
 「指導案へのメモを知りたい」という項目で、示された参観メモは大西氏の思考の一断面が見事に再現されている。これはなかなか一朝一夕にたどり着けないなあと感じてしまった。
 能力の高さも当然なのだろうが、視点を決めて授業を見ることをどの程度続ければ、こんなふうに書けるのだろうかと思ってしまう。

 「授業を見る目を高める ノウハウ25」が副題にある。
 そのノウハウに迫る原則を、私なりに三つに絞り込んでみる。
 
 一つは、根本を見る。
 「指導案の見方」において、「魂を見る」と書かれてあることが象徴的だ。人が書くプランの中に思い、願いを読みとろうとする姿勢がなければ何事も始まらない。
 それは教材を見る場合の分析にも表れてくるだろう。章立ての言葉としては「想い」「幹」であり、「何のために」「何を」にどこまでもこだわれるか、そこがいつだってスタートだと思う。

 次は、子どもの力を信ずる。
 例えば「オープンカンニングの発想」「一人で解くことにこだわりすぎない」といったコラムによく表れている。子どもの可能性を信ずるという言葉が、けしてきれい事でなく、膨大な経験によって実感されているのだと思う。
 そして、それは直接に子どもへ働きかける際の信念にもなっている。
 教師の工夫や親切が、子どもが自分自身で伸びる力を阻害してしまっているという場面も、よくありはしないだろうか。

 だからこそ、三番目の子どもの動きを見るという視点が有効性を持って響く。
 教師の「○○しましょう」という働きかけを、文言のみで検討するのではなく、言葉がけされた子どもの動きを通して分析するという手法。納得できる。
 これは、教師の指導の系統性や日常性、何より力量そのものを丸裸にしてしまう、と言ってもよくないか。

 その昔、「隠れ指示」という言葉が流行った。特に小学校の学級担任は意識するしないにかかわらず、子どもたちにたくさんの隠れ指示をしている。
 その有効性あるいは問題点を、大西氏ならきっと即座に見抜くだろう。

 簡単に事実を見るとはいうが、そこから真実を見抜くためには、意図的に計画的に継続的に場を重ねていかなければならない。この本はそのためのいい教科書になっている。

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