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桜と絵本と豆乳と

窓を見つめて妄想する者たち

2018年06月20日 | 読書
 ごく普通に口にしている「」という語も、考えてみると意味深い。
 もちろん「心の窓」といったような比喩的な使い方が一般的なので、「外と内をつなぐもの」としての象徴性が高いことと関係があるだろう。


Volume109
 「いくつもの窓の四角い連続。窓というものは、どちら側に向けられて設置されているものなのか。いつも不思議。どちら側へというのは、教室の内側へなのか、外側へなのか。窓に表と裏があるのか。」


 月刊誌『ちくま』に連載されている「T/S」(藤田貴大)という小説の中の一節。
 学校が舞台になっていることは、「教室」という表現があることでわかるだろう。
 私たちはずいぶんと多くの窓に囲まれて育ち、また現在も暮らしていたりするわけだが、窓の「内外」「表裏」なんてふだんは考えない。


 もちろん建物の構造上の観点であれば、窓の役割とは「採光や通風」なので、きっとどちらを表と呼ぶか、内側と称しているかは決まっているのだと思う。

 ここでは、言わば「窓に守られた空間にいる者」がその窓をどう感じ、どう考えるかを問題にしているのではないか・
 まあそんなふうに窓を見つめて妄想している者にとっては、きっと内側こそ「表」だと思い込むことが常だし、それはきっと楽しい時間にちがいない。

 また、そんなふうに思考できる場であることが学校という限定された空間の良さと言えなくもない。
 妄想さえも許される時間が保障される(認められるかどうかは別にして)ことが、学校に入っている間の特典と言ってもいいではないか。


 ただ、光や風はいつも窓を通して、向こう側からやってくることは間違いない。
 また、それらが常に清く正しく美しいとは限らないことは自明である。

 だから、「教室の窓の開閉はきちんとしましょう

 と、標語のような結びとなってしまう。
 (いったい、誰に対して言っているのか)

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