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定点としての学校

2010年03月27日 | 雑記帳
 閉校や学校統合について語るとき、教育効果や経済性が検討され、それぞれの立場で意見が交わされる。
 そうした場にあって、自分なりに個別の問題、例えば複式指導のことやスクールバス通学のこと、また学校が地域に及ぼす影響などについて考えはあるのだが、話していていつもどこかすっきりこなかった。

 三十年以上も学校に勤めてきた者の思いとして、学校がなくなることをその程度でしかとらえられないのも情けないなあと感じることもあった。

 最近は統合問題が提示されれば、保護者の年齢層より祖父母の年代の反対が目立つそうである。それは、ノスタルジアと簡単に片づけていいものか、そこに大事な意味はないのだろうか、そんなことも考えていた。

 しょっちゅう訪問している内田樹教授のブログを読んでいたら、こんな一文に出会う。

 学校というのはそれがある場所も、建物も、教育プログラムも、校歌も、制服も、どうでもいいような校則も、できるだけ変えないほうがいい。
 
 「変化」は私にとっても高い価値を持つキーワードであり、いきなりこんなことを語られると面食らう。
 しかし、一面でなるほどと思う。学校に通うということは、ある景色や価値観をくぐりぬけることで、大小の違いはあれくぐりぬけた者たちにとっての定点となる。
 その存在は変化をしないことが、大きな価値となっていく。
 内田教授が語るイメージは高校や大学かもしれないが、小・中学校でもその思想は必要ではないか。

 変化してもいい要素はかなり限定される。根や幹にかかわる部分をやせ細らせてはいけない。そして、一番変えてはいけないのは、おそらく「場所」になるだろう。
 その一点を持ってしても、拙速な統合は考えものだと思う。

 内田教授の次の一文は、少し感動的ですらある。

 そこに戻ると、自分にとって何が正しいのかがわかる場所。自分はこれからどういうふうに生きようとしていたのかがはっきりと思い出せる場所、そのような場所であることが学校の責務だと私は思っている。
 
 多くの人が定点を失った。これ以上失いたくないという思いである。

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