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十三夜の照らす心

2018年10月24日 | 雑記帳
 日曜日、がーまるちょばのステージが終わり外へ出たらもう4時半を過ぎていた。一日よく晴れ上がり、西日は山の陰へ隠れながら淡いオレンジに空を染めていた。自宅まで1時間弱、ゆっくり車を走らせていると、東に月が見えだし、翳り出した風景の中で明るさを増してゆく。


 「あれっ名月だっけ?」「でも満月じゃないよな」…天文や暦の基礎的な知識を持ち合わせていない夫婦の会話。「九月の名月の他に、もう一つあったはずだ」「なんだっけ、豆?栗?」…自宅にもどり、カレンダーを見ると「十三夜」。ああ、なるほど。満月でなくとも月を愛でる夜だ。



 それにしても改めて何故満月ではないのかと思う。少し検索すると、諸説ありながら、ふむふむな事柄が出てくる。「日本で最初の月見は十三夜だった」「十五夜は中国から伝えられた」「十三夜に曇りなし(陰暦九月の気候安定)」…いずれにしても、日本では月見は二度して完結する。


 古典を紐解けば、西行は『山家集』で詠っている。「雲きえし秋のなかばの空よりも 月は今宵ぞ名におへりける」つまり仲秋の名月よりも、十三夜の月の方が名月にふさわしいということだ。『徒然草』の「花はさかりに、月はくまなきをのみ賞するものかは」は有名だ。まさに十三夜。


 我が国には「未完」「不足」「余白」の美という文化が確かにある。完全無欠で非の打ち所がないものより、どこかに隙や傷や穴があった方が好まれるという例は数多い。それはある意味では満ち来ることへの願い、祈りに通ずるだろう。十三夜はありのままを受け入れる心を照らす。

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