水曜から校外の会議等が昨日まで続いた。
特に金、土は宴会もあり、毎年のこととはいえ疲れが残る。
いくつか振り返りながら書き留めておこうと思う。
「伝える」「伝え合う」という言葉は,学校や教育界の用語としてずいぶん普及しているし,会議のたびに何度も使われる。
しかし,そのわりに,そう言っている自分たちはどうなのだろうと思わされる機会が相変わらず多い。
年度当初,たくさんの人が集まる場で,またそんなことを感じた。
ある団体の総会に出席して,規模はおよそ100人,体育館にゴザを敷いて行う形なのだが,マイクなしで話そうという人がいた。
意図はわかるし,大きく強い声であれば,その考え方も結構ではあろう。しかし失礼ながらあの声ではほとんど聴き取れない参加者が大半だったと思う。
そこには,もしかしたら言っても言わなくともいいようなことだから,聞こえても聞こえなくとも構わないという意識があったのだろうか。
その状況を見過ごしている周囲(自分も含めて)にも責任はあるかもしれない。
進行している中で,事務局が説明することが何回かあった。
当然,マイクは使われたが,機器の接触が悪いのか,繰り返しオフの状態があって非常に聞きづらく,内容がほとんど聴き取れない状況だ。
これも言っている本人が気付かず,そのままの状態で続けられた。
ここにも同じようなことを感じた。会場から指摘がなければそれでいいのか。
最低限,音声として聞こえているのか。
次に,内容が伝わっているのか。
そして,意図を理解してもらえているのか。
そういう段階を今更持ち出すまでもないだろう。
では,自分はどうかと問われれば,もしかしたら…という不安も出てくる。
野口先生に教わったマイクを胸固定して話すということだけは意識できていたようだが,相変わらずの早口だったし,もう少し内容を絞るべきだったか。
マイクで伝えること,伝える以前のこと…実情はかくも様々である。
特に金、土は宴会もあり、毎年のこととはいえ疲れが残る。
いくつか振り返りながら書き留めておこうと思う。
「伝える」「伝え合う」という言葉は,学校や教育界の用語としてずいぶん普及しているし,会議のたびに何度も使われる。
しかし,そのわりに,そう言っている自分たちはどうなのだろうと思わされる機会が相変わらず多い。
年度当初,たくさんの人が集まる場で,またそんなことを感じた。
ある団体の総会に出席して,規模はおよそ100人,体育館にゴザを敷いて行う形なのだが,マイクなしで話そうという人がいた。
意図はわかるし,大きく強い声であれば,その考え方も結構ではあろう。しかし失礼ながらあの声ではほとんど聴き取れない参加者が大半だったと思う。
そこには,もしかしたら言っても言わなくともいいようなことだから,聞こえても聞こえなくとも構わないという意識があったのだろうか。
その状況を見過ごしている周囲(自分も含めて)にも責任はあるかもしれない。
進行している中で,事務局が説明することが何回かあった。
当然,マイクは使われたが,機器の接触が悪いのか,繰り返しオフの状態があって非常に聞きづらく,内容がほとんど聴き取れない状況だ。
これも言っている本人が気付かず,そのままの状態で続けられた。
ここにも同じようなことを感じた。会場から指摘がなければそれでいいのか。
最低限,音声として聞こえているのか。
次に,内容が伝わっているのか。
そして,意図を理解してもらえているのか。
そういう段階を今更持ち出すまでもないだろう。
では,自分はどうかと問われれば,もしかしたら…という不安も出てくる。
野口先生に教わったマイクを胸固定して話すということだけは意識できていたようだが,相変わらずの早口だったし,もう少し内容を絞るべきだったか。
マイクで伝えること,伝える以前のこと…実情はかくも様々である。
聞きやすかったです。
私は,先月,卒業式の呼びかけの全体指導で,スーツの胸ポケットにマイクを入れて話しました。
格好はあまりよくありませんが,口からマイクが適度に離れる上に,両手が空くので話しやすかったです。(だったら,ピンマイクを準備したらいいのに。)
そうやってみると、他の方々の使い方が妙に気になり、やはりそこでも口に近づける人がいて、ほとんど聞き取れない状況も生まれていました。
会場の反響も大きな要素ですね。