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背筋をのばして声を聴く

2011年10月20日 | 読書
 読んでいて思わず背筋が伸びる本はめったにないものである。

 言葉に力がこもっている。文章を貫くぴしっとした芯のようなものに身体が反応するのだと思う。

 『言い残された言葉』(曽野綾子 光文社文庫)

 なんといっても、アフリカを初めとした発展途上国への訪問経験から語られる事実が新鮮であり、強烈だ。一般にはあまり知られていないことが多いのではないか。

 例えば、アフリカでは救急車は常に、どこでも有料であるということ。
 例えば、警官が事件を摘発するということに熱意を持たないのは、世界中の多くの国で見られること。
 例えば、スマトラ沖地震で子どもを失った夫婦の中には、妻が経済的な理由で不妊手術を受けていた例が少なくなく、震災後には子どもを失った補償金で卵管再生手術を行ったということ。
 
 こうした情報を片手に抱え、生きることを俯瞰している人がとらえるこの国の現実とは、実にひ弱であり、気持ちが悪いほどに緩慢な姿だと思う。
 自分もまたその一部であることを認めざるを得ない。
 
 器の中にこの世界があれば、まるで上澄みのような場所で暮らしている私たち。
 底に沈む泥が少し浮き上がっただけで、おたおたしている現実。
 自然や悪意の棒が、その器全体を掻き混ぜたとしたら、いったいどうなるのだろうか。

 その時信じられるものは何か。

 人は自分で自分を助けるしかない。「自己責任」というのは最もつまらない冷たい表現で、日本人はそれを昔から「自力本願」という言葉で表すこともあった。


 恥ずかしながら「自力本願」という言葉は初めて目にした。
 そこに込められる「自力」を持つためには、経験も知識も必要だが、それ以上に覚悟が大きいように考える。

 それは例えば、我が師のいうところの「結果内在論」と深く結びつくのではないか。
 事実をまず自分の目で見つめ、判断し、選択し、応えていく…そうしようと努力する、そういった繰り返しによって鍛えられていく。他からの情報を閉ざすということでなく、まず物事の原則、本質を考え、内なる声を聞くことの大切さを強調することだ。
 
 「誰の声」を聞いて行動するか。
 それさえはっきりしていれば、結果の良し悪しに振り回されることはない。
 いつの時代も、どこにあっても揺るがないのは、それだ。

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