個人としての我々は二種類の世界と言葉の間で、いわば両義的に生きている
穂村弘の言葉である。
長く会社に勤めながら短歌を作り続けた穂村は、その時の短歌づくりについて尋ねられて、「二種類のまったく違う言葉を使って」いたと説明する。
会社では効率を重視する言葉、つまり取り替えのきくことが重要になるが、短歌が志向する言葉は、まったくその逆であると語る。
教育の場に重ね合わせたとき、興味深い問題にもなる。
私たちが子どもに身につけさせるべきは、まずは共通性のある言語ということになる。それが使命であることは間違いない。
しかし、それと背中合わせに、人は個別的な言語も持ちえなければ、生きていけない存在であることを、誰もが知っている。
そのバランスを、などとぼやけた括り方はしたくないが、個別的な言語にどの場でどれだけ寄り添っていけるかが、大きな仕事であることは言うまでもない。
もちろんそれは、国語教育とか言語教育とかいう範疇ではなく、校門を通る瞬間から(またそれ以前から)始まっていることと言わねばならない。
穂村弘の言葉である。
長く会社に勤めながら短歌を作り続けた穂村は、その時の短歌づくりについて尋ねられて、「二種類のまったく違う言葉を使って」いたと説明する。
会社では効率を重視する言葉、つまり取り替えのきくことが重要になるが、短歌が志向する言葉は、まったくその逆であると語る。
教育の場に重ね合わせたとき、興味深い問題にもなる。
私たちが子どもに身につけさせるべきは、まずは共通性のある言語ということになる。それが使命であることは間違いない。
しかし、それと背中合わせに、人は個別的な言語も持ちえなければ、生きていけない存在であることを、誰もが知っている。
そのバランスを、などとぼやけた括り方はしたくないが、個別的な言語にどの場でどれだけ寄り添っていけるかが、大きな仕事であることは言うまでもない。
もちろんそれは、国語教育とか言語教育とかいう範疇ではなく、校門を通る瞬間から(またそれ以前から)始まっていることと言わねばならない。
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