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消費社会の質を問う

2017年04月26日 | 読書
 『里山資本主義』の感想メモを書きながら、ふと頭をよぎった一節がある。
 備忘メモとして残してあるファイルを探してみたら、御大内田樹氏のコトバであった。結構、前に書かれたようだ。出典は失念した。



Volume49
 「消費社会は親族の解体を要求した。親族の存在が消費行動を制約するからである。(中略)親族の絆が深い社会では、商品購入によって『自分らしさ』を表現する道筋は二重三重に遮断されていたのである。それゆえ、消費社会は消費単位を家族から個人に移行することに全力を傾注した。」


 「自分らしさ」「個性」の喧伝が消費活動を煽っていることは、多くの人が気づいている。
 ただその気づき方に関しては、世代的な隔たりや暮らしてきた環境による違いがあることだろう。

 生き方や社会的承認といった問題ととらえて進んだ揚げ句に、あれっ?実は…と思った層がいる。
 また幼い頃から「個性」という言葉を強調されながら育てられてはきたが、実際とのギャップに悩んでいる層がいる。
 自分らしいということを当たり前のように聞いて育ち、それらしく言動はするものの、実はほとんどパターン化しているようにも思う。
 一方で、消費社会の現象についてはわかるが、その意味は気づかないままという人も少なくない。


 そのように、分断され、操作されるように消費に向かっている私たち。
 もう一度、自らの消費行動を見直し、消費社会の階層というものに気づき、暮らしや生き方の変換を図るべきではないだろうか。

 それは、単に消費の抑制ということではなく、個人の消費活動が集団に重なるような、何か新しい生産性を持つような活動が意識できるかどうかにかかっていると思う。

 親族や地域の絆の維持が可能ならば継続するし、無理であるならば、新しい形の絆の創造が求められるということだ。それは、自分らしさや個性と反発しあうものではない。

 いずれにしても、順序はどうあれ自分の消費行動が、目に見える生産行動と結びついたところで成立するかどうかを意識したい。
 それが「金銭換算できない価値」と深く関わることは言うまでもなく、消費社会の質の変化を促すと考える。

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