すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「民度」から地方を考える

2008年02月12日 | 雑記帳
 あの著名な建築家安藤忠雄のインタビュー記事が、地元新聞社の発行する小冊子に載っていた。
 体調最悪の連休中にベッドでそれを読んだ。

 寒いところの人は『民度』が高いのではないか。東京であれば『自分で生きていく』と考えるが、雪が降る寒いところの人は、協力しないと生きていけない。協調心や忍耐力がないと、この地に住めないのではないか。そういった民度を長い間、養ってきたのではないかと思う

 廃れゆく地方への励ましと受け止めることもできる文章であるが、少し落ち着かない。
 そもそも「民度」とは、どうとらえるものなのか。
 辞書的な意味では「生活や文化の程度」であったり、「民主主義」と同義的なとらえ方であったりする。そういう意味では本県も含めて寒い地方が「民度が高い」とは思えないのが、正直なところだ。
 協力性や忍耐心は高いとしても、それらは裏返すと自立や決断にとってマイナス傾向を示す場合があり、「足を引っ張る」「出る杭は打たれる」がつい最近まで地方の当然の風潮だったことは、誰しも感じてきたはずだだ。(現在どうかは少し見えにくい)

 「民度」を「民が主体となって動いていく度合い」と仮に置き換えた場合、とても本県の現状を照らしているとは言い難い。
 そもそも「民」ってなんだと、漢字の字源を持ち出してみれば、「為政者によって目を見えなくさせられた奴隷の姿」という有名な解説にたどりつくのだが、それでは「民度」も何もあったものではないので、そこまでは掘り下げない。

 とりあえず「指示にそって整然と動く」「目標に向かって一致団結する」力は認めるし、やはりそこを強みとするべきだろう。それを『民度の大きな面』と割り切っていくしかないか。
 従って、地方には「民」を動かす人が必要だ、とごくありきたりの結論になる。
 大昔、そこに根づいた人々の集団にも、統率者がいて知恵者がいて、寒さをしのぎ暮らしを工夫してきたのではないか。そこからの無数のステップの中で何かを見抜けなかったことが、この地方の、この国の不幸であったか…
 などとしみじみしていてもしょうがない。

 安藤の結論めいた一言はありきたりではなくとても面白いし、建築家だけにその数は妙に信頼度が増してみえる。

 全財産を投げ打つぐらいの人がいなければ、地方都市は変わらない。・・・・(略)・・・・・地方を変えようという本気の人が、だれか三人いればいい。真剣に秋田を変えようと立ち上がる人が三人と、その三人に信用があれば、地方都市は動くはず。

 財産がないので「三人」にはなれないが、柱を見守る板材ぐらいにはなれるかもしれない。
(安藤の言う『民度』は、人間関係や自然との接し方、敬虔な気持ち…そうしたものが大きいようでかなり感性的なとらえかたをしているように思った)


コメントを投稿