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待ち遠しいことの姿を描く

2019年11月27日 | 雑記帳
 とあるボランティアグループに所属していて、今年はその会報を編集する役割を仰せつかっている。
 毎度、短いあとがきめいた文章を添えているが、来月号に向けてこんなことを書いてみた。

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 あっという間に令和元年も最終月を迎えました。
 さて「高齢になると時間の経過が早く感じる」ということは、よく耳にする言説です。10歳と60歳を比べた「人生の比率」など心理学的説明はいくつかあるようですが、その一つに、子どもには待ち遠しい行事が多く、時間経過に注意を向ける回数が多いという論もあるようです。
 年末年始などは特にそう意識することが多いかもしれません。とすれば、私たちも「待ち遠しい」を増やすことによって、ゆっくりと時間を認識でき、それが日々の充実につながるとも言えそうです。
 いかがでしょう。今、あなたには待ち遠しいことがありますか。

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 さて、そういった自分は…と胸の内を見つめれば、今はストレートにパッと待ち遠しいことが出てこない。
 教員時代はやはり長期休業が待ち遠しかったりした。ただそれは今思っても、のんびり休みたい気持ちだったことは歴然としている。
 もちろん、実践華やかかりし頃(笑)は、様々な研究会に参加し明日の授業が待ち遠しいと思ったこともある。発表会や大会に向けて精力を傾けていたときも当てはまるだろう。
 もっと遡れば、学生時代はコンサートという晴れの舞台だったろうか。
 それ以前の少年期は、やはりいろいろと数多くあったに違いない。


 その中身をたどってみれば、活力が向かう対象は、与えられたことからつくりだしたことへ変わっている。そして、それは活力の低下とともに安らぐ心持ちを求めるようになる。自然な流れとも言えるだろう。
 ただ、過度の束縛から逃れられるならば、まだまだつくり出せるのではないか。


 「待ち遠しいこと」の姿は多様である。
 自分の心身が求める時間や空間をしっかりイメージすることによって、その姿は明確になるだろう。
 描いてみるその力を絶やさぬようにしたい。

 
 例えば、来年が待ち遠しいといったとき、具体的に何を描くか。

 その姿に向けて歩むことが一つでもあれば、時間はしっかり認識できる。


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