集団の持つ強制力から離れても
教師の叱責の意図など考えなくても
平然としていられる小学生の存在に驚いたことは確かだが、
それも「時代の流れ」といった漠然としたとらえ方をしていた。
そうした子どもはやはり稀であったし
「言葉の使い方」について目覚めた自分は
指導についての技術や技能でカバーできるはずという考えであったろう。
しかし、教室での授業場面以外で目立ってきたことがあった。
例えば、廊下にゴミが落ちていても拾わない子である。
「○○さん、そこにゴミが落ちているよ」と声をかけても
拾わずに平然として、教師が拾うのを見ていられる子である。
これは『オレ様化』で指摘されている
掃除のとき教師に促されても机を運ぼうとしない
「消費社会的な子」
の出現である。
教師ともクラスの仲間とも共同性を感じていない子
である。
そうした子が私の周囲にぼつぼつ見え始めたのは
平成に入ってからのように思う。
手を拱いていたわけではないが
まだなんとかなるのでは…という意識も強かった。
そして、平成10年だったろうか。
私にとっては忘れられない子が、目の前に現われた。
算数を教えていたときのことである。
筆算を間違えている子がいた。
順番通りに進めなかったことが原因である。
「Aくん、ここ間違っているよ」と指摘したことに対して
こんな答えが返ってきた。
「ぼくは悪くありません」
えっ、何、何を言っているの、と強く感じたことを覚えている。
Aは悪くないを繰り返すばかりだった。
今思うと、たまたま起こった出来事とも言えるのだが
私にとっては『オレ様化』の中にある次のことが、
始まりを迎えた一言だったと言っていいかもしれない。
子どもたちはすべからく自分について
「外」から批評されることを拒むようになった。
教師の叱責の意図など考えなくても
平然としていられる小学生の存在に驚いたことは確かだが、
それも「時代の流れ」といった漠然としたとらえ方をしていた。
そうした子どもはやはり稀であったし
「言葉の使い方」について目覚めた自分は
指導についての技術や技能でカバーできるはずという考えであったろう。
しかし、教室での授業場面以外で目立ってきたことがあった。
例えば、廊下にゴミが落ちていても拾わない子である。
「○○さん、そこにゴミが落ちているよ」と声をかけても
拾わずに平然として、教師が拾うのを見ていられる子である。
これは『オレ様化』で指摘されている
掃除のとき教師に促されても机を運ぼうとしない
「消費社会的な子」
の出現である。
教師ともクラスの仲間とも共同性を感じていない子
である。
そうした子が私の周囲にぼつぼつ見え始めたのは
平成に入ってからのように思う。
手を拱いていたわけではないが
まだなんとかなるのでは…という意識も強かった。
そして、平成10年だったろうか。
私にとっては忘れられない子が、目の前に現われた。
算数を教えていたときのことである。
筆算を間違えている子がいた。
順番通りに進めなかったことが原因である。
「Aくん、ここ間違っているよ」と指摘したことに対して
こんな答えが返ってきた。
「ぼくは悪くありません」
えっ、何、何を言っているの、と強く感じたことを覚えている。
Aは悪くないを繰り返すばかりだった。
今思うと、たまたま起こった出来事とも言えるのだが
私にとっては『オレ様化』の中にある次のことが、
始まりを迎えた一言だったと言っていいかもしれない。
子どもたちはすべからく自分について
「外」から批評されることを拒むようになった。
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