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繰り返されてきた言葉ではなかったか

2009年11月29日 | 雑記帳
 「携帯コミュニケーションの実態」という題で、警察の方の話をうかがった。

 「もう出会い系サイトは古い」…そういう一言に驚いたりもしたが、実際出会い系サイトそのものをイメージだけしか捉えておらず、それが「グリー」になろうが、「前略プロフィール」だろうが、あまり変わらないのではないかとも考えた。

 要は「出会いを売っていますよ」なのである。そもそもそういうサイトやページを作る人の意図はどうあれ、それを利用する側が求めているものに行きつくようにできている、簡単につながりやすいのがネットの世界ということになる。

 とすれば、もちろんそういう状況把握、危険につながる要素の解明は不可欠なのだが、もっと根本的な指導が下地に必要だ。

 大きく括れば道徳性ということになろうが、それはどこで培われるといえば結局家庭ということになろう。意識するしないにかかわらず、携帯を根にした問題が生じたときに大人は、親は今までの「教育」を振り返らざるをえない。

 そして、総括もできずにあっさり敗北する親の言葉は、こんな形で警察関係者や教師に投げつけられる。

 「携帯を取り上げた方がいいでしょうか。」

 そういえば、ずいぶん昔、家庭訪問でテレビゲームばかりやる子の親に何度かこんな言葉を投げつられた。

 「ゲームを取り上げた方がいいでしょうか。」

 尋ねても何も解決はしない。結論はあなたが下し、あなたがやりぬくのだから。

 しかし、と考える。
 もしそういう言葉が時代を越えて繰り返されているとすれば、間違いなく責任の一端は「あなた」を育ててきた自分たちにある。

 だから今安易に口にされる

 「保護者の教育が必要だ」

 などという声にうなずくことはできない。

 その言葉も繰り返し言ってきたのではなかったか。

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