すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「待つ」は放棄や放置ではない

2022年08月15日 | 雑記帳
 「待つ」存在でありたい。
 また、ぼんやりとこの本を開く。
 気にしなかったわけではない。かと言って始終思っていたわけでもない。書き綴りたくなる気持ちが湧いてくるのを、待っていたというべきか。


『「待つ」ということ』(鷲田清一 角川選書396)

「1 焦れ」P18より
 待つことには、偶然の〈想定外の〉働きに期待することが含まれている。それを先に囲い込んではならない。つまり、ひとはその外部にいかにみずから開きっぱなしにしておけるか。それが〈待つ〉には賭けられている。ただし、みずからを開いたままにしておくには、閉じることへの警戒以上に、努めが要る。〈待つ〉は、放棄や放置とは別のものに貫かれていなくてはならないからだ。



 時々、夜半に目が覚め、次から次へと思いが浮かんできて、再びの眠りモードになかなか戻れないことがある。職場や家庭のこと、身近なあれこれが脈絡なく頭を駆け巡るわけだが、そのことを一歩引いて眺めたとき、それはいわゆる「心配事」と括ってもいいようだ。自分はいったい何を案じているのか…未来だ。


 眠りを毎日の「小さな死」と捉える考えがある。そう想うと、死と死の間に浮かぶ「未来」に悩まされるとすれば、なんとも哀しい生の時間である。できれば明るくて穏やかなイメージが湧けばいい。現実から途切れなく続く未来には「想定外」が含まれ、様々な可能性のある道に枝分かれしていると、俯瞰してみる。


 「待ってみよう」…なかなか口にできなくなった言葉だ。効率化、迅速化がもはや常識とされ、その枠で積み上げられた価値だけが膨らんでいく。しかし些事に葛藤し逡巡するのは、実は糸を縒りあげることに似ていて、心の強靭さを作る面もありはしないか。そうした心遣いの有様を時代遅れと切り捨てたくない。


コメントを投稿